*** 久能山東照宮 ***         (2012.6)


 3.11のあと、東海地震だの首都直下型地震だの、さては富士山噴火だのと巨大災害の予想が喧しい。
 なんとなく、静岡の辺りは不気味で巨大地震・津波が直ぐにでも来襲するのではないかと言われて
 いる。富士山が爆発すれば出来たばかりの新東名も溶岩に呑み込まれ、無論、新幹線や東名もだろ
 うが、行く事は出来ない。その前に巨大地震で我が家も壊滅していて観光はおろか、生存している
 かさえも判りはしないのですが・・・。

 このGoogleマップを見ると、駿河湾は陸地から直ぐに大きく海底が落ち込み、異様な海底地形とな
 っている。最深部は水深2500mもあって、世界で最も深い湾であるとされている。このように深い
 海の近くでは大津波は起きず、それが来襲するのは水深の浅い遠州灘の方だと言って安心する向き
 もあるが、東北の津波を見ていると否定せざるを得ない。

 伊豆半島は南海にあったものが流れ着いて日本列島に衝突し、その際箱根や富士山そしてこの久能
 山あたりが隆起したのだろう。現在久能山は独立している270mの山だが有度山共々かっては日本平
 と共に海底が隆起したもので、侵食されて孤立した山となったものである。

 →画面右上の白い円形のものは富士山。

 










 この久能山は海岸から僅か400〜500mほどしか離れていない山であり、久能山東照宮はその頂きに
 徳川家康が生前に指定した墓所である。

 ここに行くには二通りの方法があり、一つは海岸の正面から1159段のつづら折りの石段を登るもの
 と、もう1つは東名高速道の日本平PA辺りから日本平山頂に伸びている日本平パークウエイを終点
 の日本平まで車で登って、そこからロープウエイで久能山まで降りていく方法である。日本平から
 は清水へ向けて清水日本平パークウエイが通じている。日本平(大層な命名とおもうが)自体には
 景色以外には見るべきものは殆ど無いので、久能山からわざわざロープウエイで登る事はない。

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 「久能山は推古天皇の時(600年頃)久能忠仁が山を開いて一寺を建て観音菩薩を安置し、補陀落山
  久能寺と称したとあり、久能山の名称もこれから起こったと思われる。永禄年間(1225年頃)武
  田信玄が当山の要害を認めて山上に城砦を設けて久能城と称した。天正十年(1582年)武田が滅
  んで徳川のものとなった。その後元和二年(1616年)家康の薨後、久能城を廃止し、東照宮を建
  立現在に至っている」と久能山パンフレットに書かれている。
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 その久能山東照宮に表参道の石段を踏みしめて登った。

   











 このつづら折の石段は1,159段あって、語呂合わせで「いちいちご苦労」として覚えるのだという。

   












 眼下には久能海岸を埋め尽くす「石垣イチゴ」のビニールハウス    
 が東西8kmにわたって伸びている。                「一ノ門」

   

 「久能石垣イチゴ」は明治29年に川島常吉という人物が始めたとされている。最初は海岸で採取し
 大きな玉石を傾斜地に積み上げて、その隙間に植えていたが、近年ではビニールハウスの中にコン
 クリート製の人工石垣を作って栽培している。2月頃はイチゴ狩りで賑合うらしい。












 楼門                                                              神饌所(左手)と唐門(奥の建物)

   











 唐灯籠の向こうの石段を上がると唐門と本殿(拝殿)がある。












 三保の折戸茄子
 初夢として「一富士、二鷹、三茄子」が良いと言われる。       日枝神社(拝殿の横にある)

   










 権現造、総漆塗、極彩色の本殿は日光東照宮とよく似ている。
 ただし、こちらの方が日光よりも19年も前に造られている。
 平成21年に50年毎の漆の塗替工事が終了したばかりなので、写真の通りの輝きである。













 これらは皆国宝に指定されている。
 本殿の各所。
























 これらを観ていると、日光東照宮はこれを見本にして造営したと思われる。
 無論、規模は日光の方が断然大きいですが。






















 神庫                               日枝神社
 
   










  神廟から唐灯籠、楼門を見る                   拝殿内部、

   










 拝殿                               廟門

   











 本殿側面













 家康の墓へ通じる路                         家康の墓(神廟)
                                   流石に家康の墓は堂々たる造りである。

   










 唐門

   


 東照宮全体図(久能山東照宮HPから拝借)












 日本平からの静岡市の眺め                      ロープウエイからの久能海岸の眺め

   











 表参道の石段を下りながら、眼前に広がる久能海岸を見ていると、どうしても3.11の忌まわしい映
 像を思い出してしまう。
 この海岸には僅かばかりのテトラポットと低い堤防があるだけで、大津波が押し寄せてくればひと
 たまりもない。しかもこの辺りは危惧される東海地震で大津波が予想される場所なのだ。



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 久能山東照宮を観た後、清水港方面へ走り、三保の松原方面へ向かう。












 左が現在の羽衣松                         
 平成22年10月に世代交替したのだそうだ。              枯れてしまった羽衣松

   







 羽衣伝説の碑











絶景ポイントとされる場所から富士山方面を写してみた。        アガパンサス(紫君子蘭) が鎌ヶ崎遊歩道の
                                  松林に咲いていた。別名アメリカン・リリー。
   


 晴れた日ならこんな写真が撮れただろうに。当日も肉眼では微かに見えてはいたが・・・。
 しかし気になって仕方が無いことは、この三保半島の海抜の低さである。家並みは海抜2〜3mの
 場所にあり、最高地点でもせいぜい10mだろう。これでは巨大津波が来たら逃げる場所も無いの
 で3.11の惨状になるのではなかろうか?予想される津波に耐えられる避難建物が不可欠である。


  (Masabb氏撮影画像をお借りした )
  

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 この三保の松原から清水港は直ぐである。そこに「清水港河岸の市」があり魚介類を売っている。
 その一角にある食堂でマグロ丼を食べた。生のシラスも置いてあり、これも旨い。



 この清水港というのは、日本書紀に「朝鮮白村江の戦いヘ向けて、大和の国の救将廬原君臣が万余
 の兵を率いて清水湊を出て百済へ向かった」とあるから古い港である。江戸時代には家康が駿府城
 に拠点を置いていたことから軍事上の、また年貢米集積拠点としても栄えたとされている。
 現代では、自動車部品や産業機械等を輸出し、液化天然ガス、金属鉱、紙・パルプ等を輸入する港
 となっている。

 その他、この清水港に水揚げされるマグロは日本で消費される半分をも占め、日本一だそうだ。
 往復とも御殿場から新東名を利用した。従来の東名道路の造りの悪さが実感される新東名の快適さ
 であった。

 <終わり>
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