武蔵野の旅・散歩

26.鴻巣雛(16.02)

25.鉢形城址・玉淀・京亭(15.07)

24.SLパレオエクスプレス(15.03)

24.かっぱ橋道具まつり(14.10)

23.川崎大師赤札(14.05)

22.笠間陶炎祭(14.04)

21.乾通(14.04)

20.鬼平江戸処(14.01)

19.聖天宮(13.09)

18.妻沼聖天山(13.06)

17.武蔵松山城(12.11)

16.滝の城(12.08)

15.ゴルフ場の古墳(12.06)

14.柳瀬川鯉の恋&利根川のハクレン跳梁(12.04)

13.多胡碑(11.12)

12.富岡製糸場(11.11)

11.築地市場買出し(07.12)

10.皇居参観(07.08)

9.晩秋の新宿御苑(07.12)

8.川越(06.09)

7.さきたま古墳群(07.03)

6.行田周辺(11.1)

5.飛鳥山(10.04)

4.平林寺(07.秋)

3-1.春爛漫(07.春)

3.春爛漫(05.春)

2.川本町・白鳥(03.秋)

1.柳瀬川周辺

0.志木周辺(07.春)
































19.乾通一般公開 (2014.04.08)
 乾通一般公開
→ この頁の最初に戻る → HPの最初に戻る





























19.聖天宮 (2013.09.24)
 聖天宮
→ この頁の最初に戻る → HPの最初に戻る






























18.妻沼聖天山 (2013.06.23)

 動画風にまとめました。
 妻沼聖天山
































17.武蔵松山城 (2012.12.1)

 松山城を訪れるとまずこの説明書があるので、これを掲げておこう。一読すれば城の歴史の概要が
 分かる。この松山城は15世紀後半から16世紀にかけて幾多の戦乱に見舞われた城である。関東
 管領であった上杉氏の確執とそれに乗じた後北条氏の関東制覇、後北条と組んだ武田信玄やそれに
 対抗する上杉謙信が武蔵、上野の地で激しい戦いを繰り返した。

 信玄は甲斐から鉱山坑夫を連行して、吉見百穴にヒントを得たのかトンネルを掘削して攻め、謙信
 は大軍で包囲し北条が奪った松山城を攻め立てた。

 本稿末尾に記した様に、松山城は武略だけではなく、松山歌合戦の舞台ともなった城なのである。


 

 日本には"松山城"と名前の付く城が10もある。北から順に
 宮城県大崎市    「陸奥志田松山城」
 福島県須賀川市   「陸奥岩瀬松山城」
  山形県酒田市    「出羽松山城」
  埼玉県比企郡吉見町 「武蔵松山城」
  千葉県匝瑳市    「下総松山城」
  岡山県高梁市    「備中松山城」
  島根県江津市    「石見松山城」
  愛媛県松山市    「伊予松山城」
  福岡県京都郡苅田町 「豊前松山城」
  鹿児島県志布志市  「大隅松山城」

 城が築かれる場所が山、そして松の木が多いからだろうか。こんなにも同名の名前があったのだ。

 日本には二万五千もの城があったという。柵で囲われただけの城砦から天守閣を備えたものまで千
 差万別である。江戸末期には二百、そして天守を持ったものは七十だったそうである。現存してい
 る天守や城郭が残されているのは僅かしかない。丸岡城、犬山城、松本城、彦根城、松江城、備中
 松山城、丸亀城、姫路城、伊予松山城、高知城、宇和島城、弘前城の12城である。


 僕が知っているのは武蔵松山城、備中松山城そして伊予松山城だけである。伊予松山城は「坊ちゃん」
 や「坂の上の雲」で有名です。備中松山城は我が郷土の城である。
(幕末のこの城と山田方谷についHPに少し載せている)
 そして今回訪問した武蔵松山城である。

 この城址に行くには、車なら吉見百穴の駐車場に停めて行くのが良い。電車なら東上線東松山から
 東に向かって1.6kmの距離である。吉見百穴の直ぐ側である。
 
 

 
 城への登り口
   

   

 
 冒頭の説明書にもあるが、本丸跡にも以下のような説明をした碑が立てられている。関東の中世の
 模様が簡潔に纏められている。
 
  <松山城の歴史>
 松山城の築城は、山内上杉氏・扇谷上杉氏らによる関東の動乱を背景とした15世紀後半という考
 え方が有力である。松山城が中世史上に登場してくるのは大永4年(1524)1月以降であり、室町
 幕府の要職にあった公方足利氏、扇谷・山内両上杉氏の対立から、関東制覇を進める後北条氏が進
 出する時期と言える。この中にあって関東各地は一気に戦乱の渦中に巻き込まれるが、松山城もそ
 の例外ではなく常に戦略の最前線として、後北条氏・甲斐武田氏と岩槻太田氏・越後上杉氏との間
 で、幾多の合戦が繰り広げられた。天正18年(1590)、豊臣秀吉による関東攻略が行われた際には、
 前田利家・上杉景勝の大軍に包囲され、4月下旬に落城した。徳川家康の関東入国の後は、松平家
 広が居城したが、跡を継いだ弟の忠頼が慶長6年(1601)に浜松城に移封されたのに伴い廃城とな
 った。
  
 
 <中世の関東>
 室町幕府の初代将軍足利尊氏は、幕府による全国支配を強固にするため、関東に鎌倉府を置き四男
 の基元(うじもと)を鎌倉公方として統治させた。その鎌倉府の要職に「関東管領」があり、上杉
 氏が代々世襲していた。この上杉氏に諸派があり、山内上杉・扇谷上杉が有力であった。この公方
 足利氏・山内上杉氏・扇谷上杉氏らによる有力者同士の争いは、次第に激化・長期化し15世紀以
 降の関東地方は戦乱状態に突入して行った。
 こうした室町幕府の旧勢力は、新興勢力の後北条氏の勢力下に統一され、関東の戦国時代は、後北
 条氏を中心に新たな局面を生み出した。
 


 現存する城址跡
 
 
 本丸跡地の碑                       二の丸跡地
   

 
 城址から東松山市街を望む。
   
 
 
 
 松山城址の近くには岩殿観音と吉見百穴がある。

 岩殿観音、この観音を通って城址に登る事も出来る。 
 

 


 吉見百穴
   

 

 



 百穴散歩コース、2時間もあれば歩けるでしょう。天気の良い日にどうですか。
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 松山城関連年表 (本丸跡地の石碑より)

 <上杉段階>
 享徳4年  1455 鎌倉公方足利成氏、関東管領上杉氏らと分倍河原で戦い上杉氏大敗。
 長禄元年  1457 太田道灌江戸城を築く。上杉持朝このころ河越城を築く。
 文明9年  1477 太田道灌、長尾景春と戦い、上田上野介や松山衆に河越城を守らせる。
 長享2年  1488 両上杉氏、松山で合戦
 明応3年  1494 扇谷上杉定正、山内上杉顕定と高見原にて対陣。定正、荒川を渡ろうとして落馬
         して急死。
 永正2年  1505 山内上杉顕定、須賀谷に移陣を佐竹義舜に伝える。
 大永4年  1524 北条氏縄が江戸城を攻略し、扇谷上杉朝興は河越城から松山城に移る。
 天文6年  1537 扇谷上杉朝定、北条氏綱に敗れ、河越城から松山城に移る。
 天文15年 1546 両上杉氏・古河公方、北条綱成の川越城を攻めるが敗れる。
          扇谷上杉朝定討死(扇谷上杉滅亡)、難波田善銀河越夜戦で敗死。
          後北条氏松山城を攻略、垪和氏を城代に置く。
          岩槻城主大田資正、松山城攻略。上杉憲勝を城主に置く。
 天文16年 1547 松山城、上田氏の内応により後北条氏が攻略。
 天文20年 1551 北条氏康、大田資正に書を送り、松山着城を伝える。
 天文21年 1552 北条氏康、松山城普請。
 永禄3年  1560 古河公方足利義氏から芦名盛氏への書簡に、長尾景虎の関東出陣と北条氏康の
          松山城着城を伝える。
 永禄4年  1561 岩槻城主大田資正、松山城攻略。上杉憲勝を城主に置く。
          北条氏康、武田信玄に応じ松山城を攻める。
 永禄5年  1562 北条氏康、坂に着陣。上杉憲勝、和睦により松山城を退去。北条氏康・氏政、
          上田朝直に城を守らせる。   
          上杉輝虎(上杉謙信)、松山城攻略。
          北条氏康・武田信玄、松山城を攻める。城主上杉憲勝防戦する。
 永禄6年  1563 松山城、後北条・武田軍により落城。上杉憲勝城を明け渡し、北条氏康、上田
          朝直に元の如く城を守らせる。
 永禄7年  1564 北条氏康、松山城着陣。岩槻城主大田資正に人質を求める。

 <後北条段階>
 永禄12年 1569 上杉輝虎、北条市へ越相一和の条件として、松山城の引渡しを求める。
          北条氏康・氏政、上杉輝虎に松山は上田氏の本領であるとの書状を送る。
          北条氏康、上杉輝虎に松山は上田氏の本領であることを重ねて説く。
 元亀2年  1571 北条家、松山本郷町人に市の掟を発給する。
 天正元年  1573 上田長則、伝馬・諸公事などを松山本郷町人に15カ年間免除する。
 天正2年  1574 上杉謙信、松山城下など焼き払う。
 天正4年  1576 松山城主上田長則、松山本郷町人に町定を発給する。
 天正10年 1582 松山城主上田長則、松山本郷町人衆に荷留を命じる。
          織田信長の臣、滝川一益が箕輪城に入る。上田案独斉等、人質を箕輪城に入れる。
 天正12年 1584 上田憲定、下野足利攻めに出陣。
 天正13年 1585 上田憲定家臣岩崎対馬守、松山本宿代官に証状を送り、本宿地詰まりにより新宿
          創設を命じ、本宿・新宿とも町人衆に任せる。
 天正14年 1586 松山城主上田憲定、松山本郷新市場に市掟を発給する。
 天正17年 1589 松山城主上田憲定、比企郡かたよせ百姓に松山城登城を命じる。
 天正18年 1590 上田憲定、小田原籠城につき木呂子丹波守らに松山城の守備を託す。
          上田憲定、犯科人・負債ある者にも参陣を促し、扶持・褒美・取立等を約す。
          豊臣秀吉、後北条氏攻めのため京を発し、小田原に向かう。
          上田憲定、松山本宿・新宿町人衆に、世上火急につき松山籠城を命じる。
          北条分国諸城についての総軍勢配置記録に、松山城は大田氏房に属し、岩付城
          と合わせて千五百騎の兵力とされる。
          4〜5月頃、松山城落城。その後、5.20岩付城、6.14鉢形城、6.23八王子城
          7.6小田原城、7.16忍城落城。
 慶長6年  1601 徳川家康、関東に移封。松平家広、松山城に1万石で入封。
          家広の弟忠頼、5万石にて浜松城に転封。松山城廃城。

 → この年表では天正18年6月23日に忍城が落城とあるが、「のぼうの城」の本や映画でお馴
   染みのように、10日前に小田原城が落城し、それに伴い籠城する意味がなくなり開城したの
   である。

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

  松山歌合戦(吉見商工会のHPによる)
 
 天文6年(1537年)に、武蔵国松山城の争奪をめぐって扇谷上杉氏と後北条氏の間に生起した合戦。
 狭義には合戦の最中に双方の武将である難波田憲重と山中主膳の間で交わされた和歌問答を指す。
 城門から打って出、激しい迎撃戦を展開しながら帰城しようとする難波田憲重と、寄せ手側の山中
 主膳の間で次のような和歌問答が交わされたとされる。
  
 山中 :あしからじ よかれとてこそ戦はめ なにか難波田(なばた)の 浦崩れ行く 
    (兵士たちが主君の為に良かれと戦ったのに、なぜ難波田ほどの者が逃げ去るのか)
 
 難波田 :君おきて あだし心を 我もたば 末の松山 波もこえなん
     (幼君を置いて自分が戦死すれば松山城は荒波に呑まれてしまう)


 この難波田氏は難波田弾正善銀のことで、難波田城の城主であった。河越夜戦で東明寺の井戸に落
 ちて敗死する。この松山歌合戦は難波田城址でビデオによる劇画で公開されているので難波田城を
 訪問されて見学されてはいかがだろうか。
 
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
→ この頁の最初に戻る
→ HPの最初に戻る
































16.滝の城 (2012.8.17)

 我が家から一番近い城は柏城であるが、この滝の城は二番目に近い城である。一説によると、平安
 時代末期1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵に際して土豪が築いたとも言われている。しかし、城
 の形として築城したのは大石氏であり、関東管領山ノ内上杉の重臣で武蔵守護代であった大石氏が
 公方方と対抗するためにこの滝の城、そして柳瀬川を更に下った引又(志木)の柏城を築城したの
 であろう。築城時期は1460年、長禄の頃であろう。

 我が家から柳瀬川の右岸の堤防を川上に歩いて約4.8kmの距離に滝の城はある。
 
 柳瀬川の右岸の東京都清瀬浄水場辺りには”サイカチ”の大木が何本かあり、大きな曲がりくねっ
 た莢を付けている。秋にはこれが茶色く熟れ、風に揺れてカサコソ音を立てる。

 





 滝の城は柳瀬川左岸を望む高台にある。あの緑の稜線辺りだ。
 緑の中に見え隠れするのは城址公園のテニスコートだろう。

 


 柳瀬川も、浄水場の放水口を過ぎると水量も少なくなるが水も綺麗になる。滝の城が出来た頃は現
 在よりも水量がずっと豊富で豊かな流れだったようである。現在では狭山湖や多摩湖によって堰き
 止められ、東京都に大量に送られているために水量は僅かなものだ。当時は水運が可能なほどの水
 量だったという。

 東京・清瀬の埼玉県境ではこんな茅葺きの民家さえある。

  




 城の下は公園として整備されている。

 




 ここからちょっとした階段を登って行く。          本丸跡には城山神社が建てられている。


  



 立派な城山神社である。

 



 ここから南東方面の眺め。武蔵野線が直ぐ脇を通っている。→右にスクロールして見て下さい。

 




 この城はどうも昔の墓の上に建てられたようで、「滝の城横穴墓群」として知られている。
 城は12世紀頃造られたが、墓はそれよりもずっと早く7世紀中頃(飛鳥時代)に造られたようである。

 
 



 この埼玉県・所沢市の説明看板にもあるように、滝の城は北条氏照(氏康の三男)の持城で八王子
 の多摩川沿いにある滝山城の支城であった。天正18年(1590年)の秀吉の小田原城攻略に際して浅
 野長政に攻められて落城し、長く廃城となって放置されていたが、大正14年埼玉県指定史跡となっ
 て保護され、昭和47年(1972年)所沢市によって公園として整備された。

 




  




 城址の全体図はこのようになっている。敷地面積は6.6万m2ある。

 


 




  




  



  



  



  



 城の敷地の端に物見櫓跡地の石碑がある。

 




 城の案内地図が立っている北側の空堀に「狐の剃刀」が群生していた。
 この花は彼岸花科で盆前後に、日陰に咲く花である。
 英名ではLycoris(リコリス)と云いギリシャ神話の海の女神の名前がつけられている。
 
 
 


 




 葉は花が終わってから出て来るが、剃刀のような葉形をしているから狐が使う剃刀としてこう命名された。

  




 滝の城から国道254号の英IC方面に向けて帰った。その道すがらに咲いていた盛夏の花々。

 


  


  




 東光寺
 この付近は所沢市の東端の「坂の下」地区であり、直ぐ側を国道463号(浦所街道)が走っていて
 車が多いのだが、幸いにも鬱蒼と茂る小山で遮られているため静かなものである。

 



 武家屋敷のような民家                    菅原道真を祀る天神社(てんじんじゃ)

  

         <終>
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
→ この頁の最初に戻る
→ HPの最初に戻る
































15.ゴルフ場の古墳 (2012.6.14)

 ここ埼玉県本庄市児玉町にある「こだまゴルフクラブ」は大小の古墳群の上にある。
 生野山(なまのやま)古墳群は美里町と本庄市に渡る生野山に点在する古墳群で、その大半が「こ
 だまゴルフクラブ」の中にある。前方後円墳2基 大型円墳4基 中小円墳100基以上もの数である。
 ここは本庄市児玉町なのだが児玉郡美里町の飛び地がこのゴルフ場の半分程も占めている。

 このゴルフ場は野村證券グループのゴルフ場であり、プレー費は周りのゴルフ場に比較して高く、
 僕のようなゴルファーはあまり行ける所ではない。だが、団地のゴルフクラブのコンペが毎年ここ
 で開催されるので、年に1回はプレー出来るのである。

 下のGoogleの地図で分かるように関越道本庄児玉ICや新幹線の本庄早稲田から程近い場所にある。
 東西を関越道と国道254号線に、南北を国道462号線と小山川(身馴川)に囲まれた小高い丘
 陵地帯である。








 古墳は4〜6世紀頃のものと推定され、埴輪が多数出土したそうである。
 ゴルフ場で容易に確認出来るのはこの4つで、その他に多数の小さい古墳があるらしい。

 @ 銚子塚古墳   →  4番ティーグランド横
 A 生野山16号古墳→ 15番ティーグランド横
 B 将軍塚古墳   → 16番ホール
 C 物見塚古墳   → 18番ホール池の南




<銚子塚古墳>  3番を終えて4番のティグランドに向かう右手にあります。(一番南側) 

  規模    :全長58m後円径38.5m高さ5m 前方幅31.5m(前方後円) 
  築造時期:6世紀前半 
  出土品 :埴輪
  被葬者 :不明






 



<生野山16号古墳> 15番ティーグランド横にあり、14番との境になっている。

 規模    :全長58m後円径38.5m高さ5m 前方幅32.5m(前方後円)
  築造時期:6世紀中 
  出土品 :埴輪
  被葬者 :不明











<将軍塚古墳> 16番ホールの右手にある。

 規模    :直径60m高さ7m(円墳)
 築造時期:5世紀中
 出土品 :埴輪・鉄剣二・曲刃鎌一・有肩鉄斧、
 被葬者 :不明









<物見塚古墳> 18番の左土手の上にある。(ダイナスティゴルフ練習場の南側) 

 規模    :全長47m高さ4.6m(円墳)
 築造時期:5世紀前半
 出土品 :埴輪 
 被葬者 :不明







 ゴルフ場敷地外にも相当数の古墳があり、牛舎などになったものもあり、破壊されたものもある。
 惜しむらくは、多くの古墳がゴルフ場造成時に破壊されてしまったことだろう。それでもゴルフ
 場である限りこれ以上の破壊はないであろう。
 もし貴方がここでゴルフをする機会があれば、上記の場所を覗いてみてはいかがだろうか?
 プレー中は、あなたそんな余裕はありませんかナ・・・!

 ゴルフ場に古墳があるものでは、山口県の山口ゴルフ場の多々良ゴルフ場古墳、奈良県の秋津原GC
 の巨勢山古墳、奈良ロイヤルGCの石神古墳、栃木県小山GCの喜沢古墳等があるが、ほかにも沢山
 ある事だろう。多少レイアウトを変更しても古墳は壊さないで欲しいものだ。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
→ この頁の最初に戻る
→ HPの最初に戻る
































14.柳瀬川の鯉の恋&利根川のハクレン跳梁 (2012.4.4)



 ここ柳瀬川は、10年ほど前から魚影が濃くなった。はじめは汚濁に強い鯉が主だったが、最近は
 以下の様な魚が棲んでいるらしい。(河童のつづら「柳瀬川の魚たち」より参照)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
 ウナギ科     ウナギ
 コイ科      タモロコ、ニゴイ、カマツカ、ムギツク、モツゴ 、マルタ、ウグイ 
          オイカワ、カワムツタナゴ、コイ、ゲンゴロウブナ、ギンブナ、金魚
 ドジョウ科    ドジョウ 、カムルチー
 ナマズ科     ナマズ 
 アユ科      アユ
 マダカ科     メダカ
 カヤダシ科    カダヤシ、グッピー 
 スズキ科     スズキ 
 ボラ科      ボラ
 ハゼ科      ウキゴリ、スミウキゴリ、マハゼ 、ヌマチチブ 、ヨシノボリ 
 サンフィッシュ科 オオクチバス
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
 5月になると鮎が沢山遡上してきます。それを目当てで多くの釣人で賑やかです。でもやはり鯉
 の恋が圧巻です。50cmもあろうかという大物が、激しい恋のバトルを浅い川面で繰り広げる。






 これは僕の写真俳句



 利根川のハクレン跳梁

 埼玉・栗橋の利根川ではもっと凄い魚のジャンプが見られます。
 ハクレンの大ジャンプです。埼玉県の動画サイトからどうぞ。
 どうもこれも恋の大ジャンプのようです!



  ハクレンの詳しい観測状況や見学場所はこちらにあります。
   → 久喜市栗橋観光協会のハクレン 


 
 このハクレンのジャンプは霞ヶ浦から流れでて利根川に注ぐ常陸利根川でも見られる。
 こちらは圧巻の数の多さである。
 ここは茨城県神栖市の常陸川大橋の付近だと思われる。この橋の上流1.7kmの所に、利
 根川と常陸利根川の中洲に作られたワイルドダックCCがある。

 (mokkameowさんがYoutubeに投稿されたものをお借りしています)

 
→ この頁の最初に戻る
→ HPの最初に戻る




























13. 多胡碑 (2011.12)

 国の特別史跡に指定されている高崎市吉井町の石碑である。同じく高崎市山名町の山ノ上碑、金井
沢碑とともに「上野(こうずけ)三碑」といわれいづれも特別史跡である。多胡碑は中国の北魏や、
唐の書風とされ、書道の上から那須国造碑、多賀城碑と並ぶ日本三大古碑の一つとされている。

 (特別史跡とは史跡のうち特に重要なもので、日本文化の象徴たるもので2008年現在61件ある)

 

 『空っ風入野の多胡碑掠め吹き』

 

 東京練馬から北西に関越道を79km走ると藤岡JCTに到着する、ここで関越道は新潟を目指して北上
するが、ここを分岐出発点として上信越道が長野を経由して日本海側を走る北陸道と結ばれる上越
JCT目指して西北方面に延びている。
藤岡JCTからほぼ25kmに渡って藤岡、吉井、富岡、下仁田の各ICがいわゆる西毛地方に国道254号線
に沿って配置されている。群馬県下仁田と長野県佐久との境にある物見山に源を発した鏑川がこの
西毛地方を流れ下っていて、藤岡JCT近くで高崎方面から下ってきた烏川と合流して利根川に流れ落
ちている。この鏑川流域には、かって渡来人が多く住んでいた。その痕跡を示す様々な古墳や出土品
がその存在を証明している。


 
 (google-mapより)

上信越道建設で遭遇した多胡郡地域の遺跡だけでも、黒熊栗崎遺跡、黒熊八幡遺跡、黒熊中西遺跡、
多比良追部遺跡、矢田遺跡、多胡蛇黒遺跡、長板羽田倉遺跡と7つもあり、如何にこの地域に遺跡
が多くあるかを示している。更に富岡方面に向かうと、富岡ICを過ぎて直ぐに短いトンネルに入る
がこのトンネルの真上に東西200m南北350mの大規模な中高瀬観音山遺跡がある。この遺跡には153戸
の住居跡と10棟の傾斜地の建物後がある。その先の下仁田ICの真下しは下鎌田遺跡が眠っている。

この西毛地区は縄文遺跡や弥生遺跡など多く発掘されていることから、古代から人が住み様々な文化
が起こっていたが、七世紀に多数の渡来人が住み馬飼育・鉄器銅製品生産・土器須恵器生産・絹織物
生産などに当時の先端技術を用いて高度な文化を展開した。その背景には朝鮮半島での動乱があった。
660年の百済滅亡、663年百済救済のため中大兄皇子は百済に2万7千人の兵を送って倭国・百済軍が
白江村で唐・新羅連合軍と戦ったが倭国・百済軍は大敗して百済は完全に消滅した。更に668年には
高句麗が滅亡して、676年には新羅が朝鮮半島を統一した。こうした半島の混乱から多数の渡来人が
日本に移住した。大和朝廷はこれらの人々を東国に移住せしめている。これが711年にこの多胡碑が
建立された背景になっている。

多胡碑に刻まれている内容は片岡郡・緑野(みどの)郡・甘良郡3群の内、300戸を郡として、羊に給
えて多胡郡を創設する内容だ。多胡とは胡人が多い意味であり、甘良郡とは甘楽野(かむらの)と呼
ばれていて万葉集にもこの地名が出ている。甘楽(かんら)町は現存し、唐(から)が訛って"かんら"
となったことから大陸からの渡来人との関係は明瞭である。


多胡碑は下図にあるように、上信越道吉井ICの北2.5kmの鏑川河岸段丘にある。
吉井ICを出て直進すると西上州やまびこ街道と呼ばれる国道254線にぶつかる、それを左折して一つ
目の川内の信号を右折して、高崎に通じている県道71号線を1.3km走り池交差点を右折すると直ぐで
ある。

        
        (Mapionより)

この一帯には古墳や遺跡が沢山ある。
本物も碑では読みづらいが、このレプリカなら鮮明である。

 レプリカの多胡碑
 

現代語訳では、
『弁官から出された命令によると、上野国片岡郡、緑野郡、甘楽郡の三郡から三百戸を集めて新しい
 郡をつくった。羊という者を郡長にあたる役とし、新しく造ったその郡名を多湖郡とした。和銅4
 年3月9日の文書である。その文書に署名したのは左中弁正五位下多治比真人(三宅麻呂)で、太
 政官はニ品穂積親王、左大臣は正ニ位石上(朝臣麻呂)様で、右大臣は正ニ位藤原(朝臣不比等)
 様であった。』
と、多胡碑記念館の「古代多胡碑展」パンフレットに書かれている。

この中に出てくる「羊」という者については、多胡羊太夫として様々な説が言われている。羊太夫は
八束小脛という神通力を使う従者をつれて、空を飛んで奈良の都に日参していたとされる。その羊太
夫の居城があったのが吉井三山の一つの八束山である。この八束山は吉井三山の牛伏山、朝日岳の真
ん中にある山で、別名「城山」とも呼ばれる標高453mの山で、「羊の足跡」と呼ばれる石がある。
関越ハイランドGCのクラブハウスの南東にある山である。なお、朝日岳は「多胡美人」とも呼ばれ
る山で、小幡羊太夫宗勝が城主であった天引城があった標高448mの山で、関越ハイランド楓コースの
6番ショートコースの直ぐ上に聳えている。

 吉井三山参照



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
→ この頁の最初に戻る
→ HPの最初に戻る






























12. 富岡製糸場 (2011.11)

 西上州のこの付近にはしばしばゴルフで来るがゴルフ以外で訪れることは滅多にない。それではい
けないので、2011年の初冬の天気の良い日にここを訪れた。なお、西上州は西毛(せいもう)地区と
いうほうが一般的なのだそうだ。

この西毛地区は古くは甘楽野(かむらの)と呼ばれていて万葉集にもこの地名が出ている。甘楽(か
んら)町は現存し、唐(から)が訛って"かんら"となったと解説されている。吉井の付近は多胡碑が
あったり多胡の嶺(牛伏山)があるが、これは多くの胡の人住んでいたという意味でやはり渡来人と
関連の深い地域なのだ。


 
 
 (富岡製糸場HPより借用)
 
 この富岡製糸場が"世界遺産"になろうとしている事はかって耳にはしていた。調べてみると文化庁
文化遺産ホームページの平成19年世界遺産暫定リストに記載されている。いづれ遠からず登録される
ことだろう。

この工場が維新間もない明治5年に設立された事は驚きである。勝海舟が海軍大輔に、西郷隆盛が陸
軍元帥に任じられたりした時代である。

 

明治政府の「富国強兵・殖産興業」策に沿って、当時の世界最大規模の製糸工場をこの西上州の片田
舎によくぞ造ったものである。未だ江戸時代の風習や制度が主流であった時代にである。明治初期の
指導者達の先見力、指導力にはいまさがながらホトホト感心させられる。

この製糸場はフランス人のポール・ブリュナと尾高惇忠(あつただ)を中心として創設された。尾高
は渋沢栄一の義兄であり、学問の師である。惇忠は初代工場長を務めた。曾孫に同名の作曲家・尾高
惇忠およびその弟の指揮者・尾高忠明がいるとWikipediaに載っている。

この製糸工場には1時間毎に説明をしてくれる説明員がいるが、彼の言によれば、この工場は埼玉深
谷の人が深く関わって出来たとのことである。尾高惇忠、渋沢栄一はともに深谷の人であり、工場を
実際に建てた大工・職人も相当埼玉近辺から来たようである。

当時の世界最大のこの工場をわずか1年半で作りあげたというから更に驚かされる。窓ガラス、鉄サ
ッシ、蝶番等を除いて大半の資材は県内から調達したのだという。煉瓦は瓦職人がブリュナから手真
似で作り方を習い焼き上げた。製糸機械や蒸気エンジン等はヨーロッパから輸入した。蒸気エンジン
は、新橋・横浜間に開通した蒸気機関車とこの製糸工場のものだけが日本で動いた初めての機械的な
エンジンであったとの説明を受けた。

 
 
この最初の建物の煉瓦もよく見ると、形がいびつで不揃いのものが多いのは職人が慣れていなかった
からである。セメントは無かったので漆喰で留めたのである。建物は木材で骨組をして、その間にレ
ンガの壁を積む「木骨レンガ造」としている。これは丈夫なものでその後の風雪や地震のも耐え、こ
の前の3.11の地震でもガラス数枚が割れただけだという。

日本の職人の凄いところは、最初の東繭倉庫のレンガはややひどい出来栄えだが、その後に造られた
建物のレンガはもう相当に立派なものに焼いて積んでいるところである。この辺りが、日本のモノ造
りの凄いところである。

 
 
 (東繭倉庫のフランス積みの壁) 


 
 
 (東繭倉庫)




最初の官営模範工場だけあって、工場内に医療所や病室、寮も設けられ、労働時間も7時間半と決め
られ、日曜日はちゃんと休日にしている。「女工哀史」のような悲惨なことが起こるのは、ずっと
後代になって利益優先に経営者が走り始めてからである。

 
 
 (繰糸場)

 
 
 (女工館)



この工場はその後、民に払い下げられ三井、原、片倉工業へと経営が移って行き、最後に平成17年に
片倉工業から富岡市に管理が移されて現在に至っている。工場の中には近代的な機械が残されている。
日産に吸収されたプリンスの機械も見受けられる。トヨタ自動車も前身は豊田織機であり、繊維紡績
の技術が自動車生産に受け継がれている事が分かる。


 
 
 (繰糸場内部)
 
 
 
 
 (繰糸場内部)
 
 
 
 
 (PRINCEの銘板のついた機械)
 
 
 
 
 (繰糸場)
 
 
 
 
 (ブリュナ館)
 大きな建物で、高床式になっている。
 これは、東南アジアに西洋列強が植民地を造った際の共通の建物の形式である。
 
 
 
 
 (ブリュナ館) 
この時代、外人は開国に反対する武士によって襲撃される事件もあり、いざという時に逃げ込める建
物にもなっていた。
 
 
 
 (ブリュナ館) 

ブリュナが去って後、ここは企業学校の走りとしての利用がされた。就業後の勉学の場として利用さ
れていたのである。 

 
 
 (ブリュナ館、TVの南極物語でこの建物が利用された) 
 
 
 
(御荷鉾山方面を望む)

右手奥の方に日航機が墜落した御巣鷹山がある。写真には映ってはいないが。 
左手の方は国峰城址の方角だろう。

 
 
(煙突)



 
(明治の工場内部/写真は東京国立博物館所蔵のもの)

女工さんは着物に袴、髪も結った江戸時代のものである。 
当初は女工さんは集まらなくて困ったようで、尾高惇忠の娘を第一号の女工として取り立て、後に
続くように仕向けた。大半は士族の娘だった。

 
(片倉工業所蔵の写真)

操業中の工場から黒煙を煙突から上げている。石炭は高崎観音辺りで採掘された。水は傍を流れる
鏑川から取水した。

明治5年に製糸場としては世界最大の規模を誇った大工場の威容である。煙突の煙も流れており当
時もからっ風が吹いていたようである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(断り書きのない写真は、富岡市世界遺産まちづくり部富岡製糸場課の撮影許可を得ています。)
「撮影協力 富岡製糸場」

→ この頁の最初に戻る
→ HPの最初に戻る
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






























6. 行田周辺 (2011.1)

 JR熊谷で秩父電鉄に乗り換えて羽生方面へ向かい、行田市駅で降りて南口を1kmほど南下すると
水城公園がある。その一角に忍城址の御三階櫓が聳えている。

この忍城こそ難攻不落の城として天下に知れ渡っている城である。この城を描いた小説「のぼうの城」
は今年映画が公開される。「のぼう」とは、「でくのぼう」の "のぼう"のことであり、なんとも傑作
な命名である。


 *忍城は「知的好奇心」の項を参照下さい   → 忍城




 忍城を後にして更に1.7km南下すると「さきたま古墳公園」に到着する。ここには9基もの古墳が
集まっている。なかでも高さ20mの丸墓山古墳に上がると視界が開け関東平野や関東の主要な連山を
一望することができる。これ程の古墳集積地は他に類をみないのではなかろうか。
 




 この古墳群の東北1.5kmの所に「古代蓮の里」がある。
夏にはここの蓮池に12万株もの蓮が一面に咲き乱れる。古代蓮の薄桃色の花は神秘的でさえある。

 *古代蓮はこちらをどうぞ   → 古代蓮




 古代蓮の里から田園風景の中のヘルシーロードを北上すれば利根川に出る。ヘルシーロードは利
根大堰から見沼代用水路にそって川口のグリーンセンターまで埼玉県が整備した自転車歩行者道で
あり、56.5kmもの総延長がある。上田清司知事は大の自転車好きで、荒川土手を東京湾近くまでサ
イクリングされるとか?だからこうした道路の整備に積極的なのだろう。自民党の谷垣総裁も自転
車がすきなんだそうだ。茨城か、千葉だか利根川河口から群馬の前橋辺りまで100kmを越す自転車道
もあるが、途中迂回路などもあって全線開通ではないらしい。

 更に利根川に沿って5kmほど自転車道を遡上すれば赤岩渡船場に到着する。
Wikipediaによれば「赤岩渡船(あかいわとせん)とは埼玉県熊谷市葛和田と群馬県邑楽郡千代田
町赤岩の利根川の対岸同士を結ぶ渡船である。」

 埼玉県道・群馬県道83号熊谷館林線の代替渡船であり、運賃は無料である。渡し舟は千代田側に
居ることが基本となっており、葛和田側から乗る場合にはポールに黄色の旗を揚げて合図する。
事実地図で見ると、県道83号線はこの利根川を渡船で結んで埼玉、群馬両県へと延びている。

 
 (写真はWikipediaより)
 
 さあ、元気をだしてサイクリングでもいきましょう。
でも冬はちょっとね!でしょうか。 

→ この頁の最初に戻る
→ HPの最初に戻る





























1. 柳瀬川周辺散歩
                        
志木にも秋が来た。
とある家の玄関先の鉢植の櫨、早くも見頃でした。
     
 


夏の強い日差に照り返していた唐辛子。もう直ぐ葉が落ちるが
まだ頑張っている・・・。


 
 

花茗荷の花、食べる茗荷とは別ものか?

  

今年も、またいつの間にか夏が過ぎ去り、秋が顔を覗かせる。

ジンジャー (赤) ジンジャー(白)
四角豆の花(うりすん)沖縄の食材                   四角豆の実(うりすん) これは不思議な切り口が四角な豆!                                       
花虎の尾                                ********************************************************************************************************** 散歩で出会う花鳥。
直径20cmもある芙蓉                                屁糞蔓、なんと可愛そうな名前
夜咲くカラスウリ                                 百日紅
キバナコスモス                                  名称不明?
百日草                                      立葵
 
鴨 ムクドリ   
***************************************************************************************************************

                                
・白孔雀(ピンクと白がある。長い茎がたくさん枝分かれして       ・蓼(蓼食う虫も好き好きの蓼、中に風船葛が絡んでいる)
  多数の花を白い花を咲かせるところから、孔雀の尾っぽの
  羽根に見立てた)                                      
 
                                           
                         
  

・サフラン(めしべを乾燥させ鎮静、鎮痛として薬用に、また ・彼岸花(曼珠沙華、埼玉の巾着田に大群生がある) 香辛料としてブイヤベースパエリャ等に利用される。作業の       大変さからも非常に高価)              

・唐辛子(我が菜園で採れたもので、タカノツメである)     ・金木犀(銀木犀もあり、こちらはやや匂いがすくない、  花瓶は”ヱビスビール”工場(東京・恵比寿)で利用されて 日本の金木犀は殆どが雄株で実は付けない) いた配管を切断して作成されたもので、恵比寿ガーデン竣工 の記念品。ついでながら、恵比寿駅はヱビスビールの名前か ら付けられた珍しい駅名)                                                                        

                  → この頁の最初に戻る
→ HPの最初に戻る
*************************************************************************************************************

inserted by FC2 system