『08年早春イベリア半島南部スペインとポルトガル・リスボン近郊を巡る旅』

「スペイン・ポルトガル旅行同窓会」

<目次>

はじめに

一日目・成田→バルセロナ

二日目・バルセロナ→バレンシア>

三日目・バレンシア→マドリード>

四日目・マドリード→トレド>

五日目・マドリード→ラ・マンチャ→コルドバ→グラナダ>

六日目・グラナダ→ミハス→セビリア

七日目・セビリア→エボラ→リスボン>

八日目・リスボン→シントラ・ロカ岬>

九日目・リスボン→ロンドン経由帰国>




<はじめに>
今スペインと言うと、時代小説の佐伯泰英をどうしても意識せざるを得ない。佐伯は1971年から
74年までスペインに滞在し、闘牛写真家を目指したが大成せず、1999年に時代小説『瑠璃の寺』
を発表して一躍売れっ子作家となって、驚異的スピードで文庫時代小説を書き続けている。
08年にはすでに100冊を超える文庫本を出している。大きな書店の時代小説コーナーに立ち寄っ
てご覧なさい、彼のコーナーが大きなスペースを割いて設置されているのを見つける事確実です。

今回の旅行にも、われ等も5冊を持参して飛行機の中で読み漁ったものです。そのいづれの本で
もスーパーヒーローが登場し、抜群の剣さばきを披露するのだが、なにかしらスペインの闘牛の
マタドールの剣さばきを連想させられる。

<主な訪問先>
カタルーニャのバルセロナ→バレンシア→マドリード→カスティーリヤ地方→アンダルシア地方
→コスタ・デル・ソルのミハス→そしてポルトガル南部

この写真のおよそ下半分の数箇所を巡った。




<一日目・成田→ロンドン→バルセロナ>
11時過ぎに成田空港を飛び立ったBA006便は日本海を北上した後、シベリア上空を延々と飛
び続けた。

シベリア・ヤクーツク上空、高度9600m、時速866km、気温零下62℃、ロンドン迄あと7時間26分。


『シベリアの 凍てつく大地 果てしなく』


やがてスカンジナビア半島上空を過ぎ、北海を一跨ぎしてロンドンのヒースロー空港に到着
したのは14時30分であった。


検査を通過して、曲がりくねった通路を延々と歩いてバルセロナ行きの飛行機に乗ってバルセロナ
に到着したのは、もう夜の10時前であった。

ヒースロー空港は北京の次のオリンピックに向けてあちこち工事中。

ドーバー海峡を越え、フランスに入りスペインに近づくにつれて、地上に奇妙な光が現れて来た。
お墓のような場所に提灯のように灯がともされていた。キリスト教の復活祭の時期らしく墓地に
でも点灯されていたのだろうか?何せ上空8,000mでは確かめようもない。

BAのエコノミー席はまことに貧弱。1回目の食事はビーフでそこそこ食べられたが、2回目はサ
ンドイッチ風でまことに不味い、ロンドン→バルセロナ間の食事は食べられた代物では無い。
席は3人掛けの窓際で、横で寝ている人をまたいでトイレに行くには相当の勇気と努力そして
跨力(こんな言葉は無いでしょうが)が必要で、これは「エコノミー症候群」の発生原因となるこ
と間違いない。次回はもう少し楽な席にしたいものである。


バルセロナ空港近くのホテルに着くなり、その日は疲れと時差ですぐ眠ってしまった。

バルセロナのホテル<TRYP BARCELONA AEROPUERTO>




ホテルの傍の高速道路・朝8時頃の通勤風景、バルセロナはスペイン第二の大都市(人口170万)




















<二日目・バルセロナ→バレンシア、バス移動距離361km>
日本語の流暢な現地ガイドさんの案内でバルセロナ市内観光
ガイドさんによると、オリンピックで随分と街が整備されたそうだ。

『聖家族 工事果無し バロセロナ』



モンジュイックの丘からの眺め




コロンブスの像、東方インドを指差している。彼はアメリカをインドだと確信していた。




地中海とバルセロナ港




アーモンドの花が咲いていた、八重の花は珍しい。




像の足の木




グエル公園・ガウディの作品が多数あり、世界遺産になっている。
これは街中にあるガウディの建築物




グエル公園のガウディの作品群




ここでは朝早くから手製のアクセサリー等を若者が売っている。




直線を殆ど使わない建築物、確かにこの方が優しい。






『ガウディは 曲がりくねって 暖かく』







これは住宅だそうで、こうしたものを30戸ほど造る予定だったとか。






セメントで固められあるそうだが、中は空洞とか?






壊れたガラスなどで作られた天井のオブジェ




かの有名なドラゴン?(トカゲ)、みやげ物屋でこれの小型を沢山売っている。




聖家族教会
いまだに建築途中で、完成までには100年とも200年とも言われている。
中は工事現場そのもので、足場が組まれ作業がなされている。
最近の報道では、寄付や観光収入が順調で、意外と早く完成するのではないかとも言われる。




スリなどが多く、二組の若い女の子が調査と称して質問をしたりして注意を逸らし、片方が
財布などを抜き取る手口だそうだ。二人の若い子が捕まった現場に出くわした。
南欧の都会ではどこも気を抜けるところは無い。




高い建物なので、みな上を見上げており、そうすると自然注意は緩慢になるものだ。




日本人も働いている。(後ろ向きの人)




これは完成した部分





ここから総延長2,400kmの超ロングドライブが始まった。

その前にまずは腹ごしらえ!

カタルーニャ名物のフィデウア(パスタ)とイカ墨のリゾット
もう少し、盛り付けってものがあるでしょうに、繊細さが足りないネ!右は教会の土台の亀。




墓地、土地が狭くなったきて最近は立体的なものが多い。郊外には土地は一杯あるが?




道路の左右にはブドウ畑とオリーブ畑が延々と続く。






このバスに最後まで乗車して2,400kmのロングドライブ。




バレンシアでの夕食、シーフードパエリア。塩辛くて量が多いだけ。




ホテルは HUSA MAS CAMARENA




















<三日目・バレンシア→マドリード、バス移動距離376km>


スペインに来て不思議で仕方なかった事の一つに、こんなにもゴルフ場に適した土地が
いっぱいあるのに、一向にゴルフ場が見当たらない事がありました。バレステロス、オ
ラサバル、ガルシア、ヒメネス等を輩出した国なのにどうした、どうしたと思いつつバス
の窓を凝視続けた。

調べてみると主なゴルフ場は地中海沿岸や、バレアレス諸島、カナリア諸島と、マドリ
ッド近郊にあり、全国各地で230ヶ所以上のコースがあるそうです。しかし、スペイン
の75%ほどの我が日本にはその10倍ものゴルフ場があることを考えると納得できる。
ちなみに、米国のゴルフ場数は15,650、英国は1,800です。

バレンシアの市内観光
ラ・ロンハの商品取引所(世界遺産)や中央市場を見学。
バレンシアは土地が肥沃で、果実・米が多く栽培される。パエーリアはここの名物料理
ホテルの庭先にはもうこんな花が咲いていた。

『バレンシア 火祭り終わりて 春が来る』





大聖堂の前




ミカレット(八角形の鐘楼)




火祭りのための人形、復活祭の最後に一体を残して焼くのだそうだ(サン・ホセの火祭り)。




ちょいとなまめかしい人形、アングルはこれ以上下げられませんぞ、アナタ!




スペインで有名な歌手だとか、すでに故人。




バレンシアはオレンジでも有名で、街中にもたわわに実った木がある。




中央市場、ヨーロッパ最大規模の市場だそうで、見ていても楽しい。
ウサギちゃんも食用に沢山売られている。
ここで、帰国後花見用のつまみに”カラスミ”を購入。




商品取引所(ラ・ロンハ)、ゴシック様式の荘厳な建物。






ここでは絹織物などの取引が行われたとのこと、絹はイスラムが持ち込んだ産物。




床の模様




<バレンシア→クエンカへ212kmバス移動>

背の低いブドウ畑が延々と続く。




山の木も小さく、大きな山もないので川は少ない。ダムの工事をしていた。




途中、サービスエリアで小休憩。日本のパーキングエリア程度。




牧草地だろうが、これも果てしなく広がっている。




世界遺産に指定されているクエンカでは桜が咲いていた。日本の桜とは種類が違う。




崖の上に街が造られている。




パラドールと呼ばれる修道院とか古城を改修したレストラン・ホテルで昼食。




レストランの天井




豚肉料理の昼食、サラダはオリーブオイルと塩、酢で自分で味付け。






ここのパラドールの内部には立派な家具や絵画がある。






レンギョウが満開




クエンカから新市街を見下ろす






崖からはみ出している家






桜が咲いている




崖の上にこんな街があるなんて!








向こう岸との間には高い橋が掛かっている。
これを渡れない”高所恐怖症”の方もいらっしやった。実は、僕も実は・・・。






『恐々と 覗き見下ろす 空中家』

<クエンカ→マドリードへ164kmバス移動>

マドリードは標高600mを越える高原都市。メセタと呼ばれる卓状台地がどこまでも広がっている。
ここでゴルフやれば、僕だって220ヤードは飛ぶだろうな!




マドリードで宿泊したホテルはAUDITORIUM。 大規模なホテルで、内装も立派だった。
ここで連泊した。




























<四日目マドリード→トレド バス移動 距離74km>


観光旅行だから当然なのだろうが、それにしても工場が見当たらない。自動車も外国産
ばかりである。シトロエン、VW、オペル、ベンツ、フォード、BMW、日産、トヨタ、マツダ
等が多く、国産のセアトは殆ど見当たらない。それも大半がディーゼルのマニュアル車だ。
しかし、自動車生産自体はドイツ、フランスに次いで欧州3位なのだそうだ。その80%は
欧州向け輸出だそうだ。賃金が安く生産工場国となったいるのだろう。

EU加盟を契機に経済成長が続き世界8位のGDP(2003年)なのだそうだ。シェスタに
にうつつを抜かしている国ではないのであろう。それに観光資産が山ほどあり、国土は
やせ地が多いとは言え広く、経済的にはそう問題がないのではなかろうか?
しかし、立派な教会などを見ると、南米などの植民地などからの収奪の凄まじさを思わず
にはいられない。

マドリード新幹線駅前




プラド美術館、ピカソ展開催中。ゲルニカは勿論ある。
解説されると、ゲルニカも納得できるのだが・・・




役所(農水産業省)




王宮






王宮前広場




ドンキホーテ像






免税店前(革製品がよいとか?、日本人の売り子数人在)




国立ソフィア王妃芸術センター見学のあと、マドリードから74kmのところのトレドへ向かう。

トレドの街並み






トレドは金属加工が盛んなところで、日本刀なども売っている。




トレドの城壁




トレドから外を望んだ景色(マドリ−ド方面)




トレドの街中






大寺院




トレドからマドリードへ帰る道路






















<五日目マドリード→コルドバ、グラナダバス移動 距離577km>

マドリードからラ・マンチャのコンスエグラまでは131kmの何の変哲もない大卓状台地の旅。
時折出現する牛の看板はブドウ酒かビールの宣伝らしい。




マドリードから南下し、昨日来たトレド右横を通ってラ・マンチャのコンスエグラに行く。
この時期は緑があるが、6月になると草も枯れて茶色の荒地になるらしい。




コンスエグラの丘の上からの眺め






ドン・キホーテの舞台となった風車






古い城砦




村の唯一の売店・給油所。観光バスが何台も来ていた。勿論、日本人も!

『ラマンチャの 枯れた台地の かざぐるま』









売店の前のドン・キホーテの像、マドリード市内のものとは随分違うナ
ここのドン・キホーテは風車を「巨人」と見間違え、戦う舞台だからか!




ここでトイレ休憩やら、お買い物をした後、次の目的地アンダルシア地方の
コルドバ目指して更に284km爆走南下!
道の両側は背丈の低いブドウ畑がどこまでも続く。






シエラモレナ山脈が近づくと険しい峠越えとなる。




途中、給油所・兼売店で休息する。駐車場の傍にケシの花が咲いていた。




空がやたら青く、あちらこちらに飛行機雲が出ている。




コルドバに近づくと緑も増え、オレンジの花の芳香に包まれる。






これがオレンジの花




ローマ帝国によって築かれたコルドバは、その後イスラムに統治され10世紀には西洋随一の
都市となり人口100万を数えた。メスキータ(モスク)を囲んで街が広がっている。




観光客相手の馬車が沢山客待ち






巨大な鐘楼(メスキータ)






昼食はこのレストレンで、ソパ・デ・アホ(ニンニクスープ)と豚肉料理






レストラン内の飾りもの




メスキータの塔




ローマ時代の遺跡




イスラム様式が濃く残っている。イスラム様式を破壊しないで、その上にキリスト教会を建設。






モスクだかキリスト教会だか分からないような建物




金箔だらけ










ユダヤ人街の「花の小道」、細かい銀細工が多い。




ここの通りは旅行パンフレットに大概載っている。






ユダヤ人街通りとでも書いてあるのか知らん。






『コルドバに イスラムの影 今も尚』

コルドバ観光・食事・買物・トイレの4点セットを済ませて、更に162kmグラナダ目指して出発!

この辺りは緑が多い、牧草地の他は果てしないオリーブ畑。スペインてこんなに広大なところなんだ!




所々に白亜と茶色の村が出現、必ず教会の尖塔が見え隠れする。








こんなに造って生産過剰にならないか心配するほど、オリーブの木が大地を覆い尽くしている。




途中でトイレ休憩。ここは廃線になった鉄道の駅舎を利用した売店もあり、オリーブオイル、乾燥イ
チジク、オリーブ石鹸等を売っていた。”3個で5(ユーロのこと)”と、おっちゃんが商売上手




彼方に雪を冠ったセラネバダが見えて来た。




いよいよグラナダに近づいた、シェラネバダ山脈には雪が沢山残っている。3,300mもありスキーも
出来る。






ホテルはABADES NEVADA PALACEでモダンなホテルだった。

その朝食。韓国の観光客と一緒だったが、彼らの品行はちょっと問題!
そのうち、経済発展した中国からもご同輩が必ずどっとやってくるでしょうよ、お行儀を良くして
もらわないと、東洋人としてちょっとネ!























<六日目グラナダ→ミハス、セビリア バス移動 距離 406km>

レコンキスタ(Reconquista・キリスト教再征服活動)は718年からkaigai/iberia/1492年までの長期に渡った。
イスラム国家のウマイヤ朝は710年にジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に上陸し、710年の
後半までにピレネー山脈以北までキリスト教徒を追い詰めた。718年キリスト教国のペラヨがレコ
ンキスタを開始し、数回の十字軍の遠征等を経由して、kaigai/iberia/1492年にやっとグラナダのアルハンブラ
宮殿が陥落してレコンキスタが終焉した。時に、まさコロンブスが新大陸を発見した年であった。

『グラナダの 兵共の 夢偲び』

グラナダはイスラムのイベリア半島最後の砦であり、イスラムの影が色濃く残っている。
アルハンブラ宮殿、ヘネラリーフェ庭園。イスラム、インド等東方の影響が大きい。




この宮殿はALHAMBRA。イスラムが造ったものは頭に”AL”が付いた物が多くアルカリ、アルコール
等々あり、当時はイスラムの文化がキリストを遥かに凌いでいた。
当時はアングロサクソンとかゲルマンなどは野蛮と見ていて、イギリス、ドイツ等はど田舎とされ
ていたようである。




何時の時代のものか、大砲が残っている。








アンダルシアでは藤の花がもう咲いている。日本では藤の蕾はまだ固いはずだ。




古代の遺跡




紫なのは蘇芳の木








宮殿遠景




噴水はセラネバダ山脈からの浸透水だそうだ。




庭園には木蓮の花も咲いている。






イスラム様式の壁、天井






イスラム教は偶像崇拝禁止のため、壁や柱の彫刻は幾何学模様と植物のみ。






くらくらする程の細かい模様がビッシリ!






インド様式の庭園




タージマハールの簡素版かな?




そして再び柱と壁、天井を覆いつくす模様!








宮殿の背後の山、その山肌に洞窟のような家が点在。




ジプシーは未だにこんな場所に住んでいる者もいるらしい。「ジプシー = 泥棒」と見做され
ているとか。インドから放浪を続け何千年、悲惨なものだ。




例によって、”おみやげタイム”
黄色いのは郵便ポスト。誰れだッ、ゴミを投げ入れたのは!




グラナダの市内




烏賊のリング揚げレンズ豆の煮込み等の昼食






シェラネバダ山脈を望みながら、コスタ・デル・ソルと呼ばれる太陽溢れる地中海海岸へ。
166kmの移動
窓の外には、雪を冠った山脈が聳える。






グラナダからミハスまでは166kmの坂下りだ。
マラガ市内を通ってミハスへ向かう。ここはピカソ誕生の地。




コスタ・デル・ソルの一つだが、ここは山の中腹にある。




白が眩しい、夏にはどうなるんだろ、この白の眩しさは!サングラス必携。




ロバはいつも悲しげ




洞窟の教会




地中海が眼前に広がる大パノラマ






アフリカが微かに見える時もあるそうだ。






みやげ物屋








山は疎林で、痩せ地




みやげ物やではいつも律儀に買い物をなさるご婦人




アーモンドチョコレートをお買いになるご婦人




ミハスを後にして、セビリアまで240km移動。
オリーブ畑が山の頂まで植えられている。










そう、やっぱりフラメンコだよね、スペインなんだから!

『セビリアの 赤と黒との フラメンコ』





『激しくて 何か哀しき フラメンコ』







「新宿エルフラメンコの舞台で踊る華麗なダンサー達は、世界的なフラメンコダンサーと
して名高く、バルセロナオリンピックの開会式で踊ったフラメンコ界を象徴する巨匠・クリ
スティーナ・オヨスがスペイン本土で選りすぐったアーティストばかり。彼女が半年に1回
スペイン本土でプロデュースしたアーティストをダンサーとして招き入れる。」
と新宿エルフラメンコの案内には書いてある。

新宿で何度か見た感じでは、明らかにこの劇場より新宿の方がよかった。

いづれもだが、目の前でドタバタされ、ほこりまみれのパエリアを食べろといわれたって・・・。

















<七日目セビリア→エボラ→リスボンへ バス移動 距離 455km>

セビリアのANDALUSI PARK HOTEL




セビリア市内










セビリア万博時のスペイン館、立派なものだ。大阪千里の太陽の塔はなんだったけ?








低床式路面電車(日本の地方都市でも導入しているらしいが)






カテドラル・スペイン最大の大聖堂
大聖堂はうちが一番、と言うのがあちらこちらにある。高さだったり、敷地だったりで、
異教徒の僕には何の感心もないが・・・。




大音響の鐘がミサの開始を告げていた。








ユダヤ人街のサンタクルス




この辺り、黒髪で小柄の人が多い。






オレンジの花の匂いがたち込め気持ちいい。








これ何の植物だったかな?




馬車は良く見かける。










西欧は大抵噴水が街中にある。




セビリアからポルトガルのエボラへ325qの長距離移動

緑が随分と増えてきた。日本と変わらない緑の量だ。今回の旅で初めての雨に会う。道路は
一般道で一車線しかない曲がりくねっている。スペインの高速道路は制限速度が120kmが多い。




ところどころに集落があり、定番の城壁・茶色の屋根、教会の尖塔である。




若葉が茂る山道をバスはズンズン進む。オリーブの木の下には紫や黄色の花が咲き、桃やアー
モンドの白い花も咲いている。ポルトガルに近づくにつれて土地が肥沃になって行く。
コウノトリの巣が沢山あり、コウノトリが見え隠れする。




給油所兼売店で休憩。
ガソリンの値段が高い、170〜180円/Lもするようだ。スペインは鉱物資源は豊富だが石油は無い。




この辺りで国境をあっと言う間に越えてしまった。EUになって欧州は本当に自由に交流できる。




あなた、300kmも一般道を走ってごらんなさい。お尻は痛くなるわ、おしっこはしたくなるわ、それ
はタイヘンなんだから!
もう、ダメ!前立腺肥大気味なんだから、我慢できないよ〜う、添乗員のお姉さん!oh my god!




長い長いバスの移動の末、やっとエボラが見えてきた。




今日のお昼は子牛のシチューとパオン・デ・ロー(カステラ)




古代の遺跡








サン・フランシスコ教会、大聖堂。サン・フランシスコが教会の名前だったとは・・・。
サン・フランシスコ教会はリスボン市内にもある。ほかにもあるのだろう、氷川神社と同じか?




この教会は金ピカピカ、南米の方から略奪した金だろうけど。
撮影が有料なので写真はないのですが、「骨の教会」と言うのが直ぐ隣にあって、部屋の中すべてが
人骨で出来ている教会がある。何千と言う頭蓋骨、大腿骨などで壁や柱などが作られており、不気味
なものである。入り口には「あなたの骨を待っています!」の意味の文字の板が掲げられている。








僕、ダメなんです。金ピカを見ると震えるんです、カメラもぶれて御免なさい・・・。




エボラの街を散策








スペイン、ポルトガル共同じような街が多くやや食傷気味!






ケシや蘇芳が咲いている。






ここからリスボンまで、再度バスで130km移動だ。大平原が続く。




本当に退屈な風景が車窓に広がる。スペインに比べて土地が肥沃なのだろう、牧草も木々も緑が
濃くよく育っている。



  スペインで「タホ川」と呼ばれていた川が、ポルトガルでは「テージョ川」と名前を変えている。
その川の掛かっている「バスコ・ガ・ダマ橋」はなんと17.2kmもある。この橋を渡りきるとそこは
リスボンである。




夜はファドディナーショー。
ファドのディナーショウの模様は、そのさわりを動画に録画し、僕のHP「四季の森空間」に掲載して
います。(店の録画許可が出ていますのでOKです)下の<ファド動画>から入れます。
<ファド動画>画面をクリックしてください。
FREDERICO VINAGREが歌うESTUDANTE DE ESTRELASの曲?です。

Wikipediaによると、ファドは以下の様なものと記されている。

「ファド(Fado)は、ユーラシア大陸の西の端、ポルトガルに生まれた民俗歌謡。ファドとは運命とか
宿命とかという意味であり、このような意味の言葉で自分たちの民族歌謡を表す民族は珍しい。
イタリアにカンツォーネ、フランスにシャンソン、アルゼンチンにタンゴ、ブラジルにサンバやショー
ロがあるように、ポルトガルにはファドがある。

その起源については諸説があり、同様にイスラム色の強い隣国スペインの「フラメンコ」との類似点
をとらえてか、かつてここを占領していたムーア人(イスラム教徒)達の11世紀頃の音楽、歌謡に源
を発しているという説まである。 わりあい広く認められている説は、大航海時代にポルトガル人達が
植民地ブラジルへ連れて行ったアフリカ人奴隷達の踊り「悲しげな舞曲 Fado 」が、植民地から収奪
した金やその他の産物とともに、リスボンに逆輸入されたというものだ。 多様な人種と文化の混合す
る植民地ブラジルから渡ってきた踊り Fado は、アフリカ色の強い様々な踊りがミックスされ、当時
同様に南アメリカ大陸に広く進出していたスペイン支配下のアルゼンチンの「ファンダンゴ」にも影
響された、きわめて官能的な踊りだったとのことである。

リスボンに上陸したこの官能的な踊り Fado は、奴隷としてポルトガルに連れてこられた黒人達や、
混血達が多く集まり住んだ古い市街地アルファマやモウラリアを中心に、リスボンの黒人の間に
ブームを巻き起こした。 古びたリスボンの下町で大いに歌いながら踊った奴隷達の Fado は、や
がて舞台音楽や他階級文化の影響を受けるうちにアフリカ的な打楽器の伴奏が次第に失われ、歌
の部分のみが強調されて伸び縮みの多い叙情的な歌謡に変化してくる。

19世紀に入ると植民地支配の栄光の時代は終わりを告げ、ブラジルやアフリカの植民地を次々と
手放したポルトガルは暗い困窮した黄昏の時代に入る。 その暗い世相の中で、現在歌われるスタ
イルのFadoは、貧しい人々が集まる下町の石畳に響くように、裏町の安酒場や売春宿から歌い出
された。歌を創るのも歌うのも最下層の人々だった。荒んだ生活や辛い暮らしのうさを振り捨て
るかのように想いのたけを歌に託してほとばしらせたのである。」





最後のホテル「ALTIS PARK」
























<八日目リスボン→シントラ・ロカ岬へ バス移動 距離 80km>

リスボンの闘牛場。スペインでは最後にマタドールが出てきて手負いの牛にとどめを刺して牛を殺す。
この「真実の瞬間」がないとスペイン人の血は収まらないのかな?
殺した牛は食べるそうだが、肉は硬いそうだ。

ポルトガルの闘牛は殺さないそうである。闘牛は夏が本番でこれからシーズンが始まるらしい。




水道橋、現在は利用されていない。




市内から30kmほど西に行くと、ヨーロッパ最西端のロカ岬である。
「ここに陸つき海始まる」とルイス・デ・カモンイスの詩が石の十字架に刻まれている。ほかには灯台
や観光案内所、売店がある位で、銚子の犬吠崎の様な所である。




観光案内所では「最西端到達証明書」を発行してくれる。因みに僕のは98,277番目であった。








人生に疲れた”女”が強風の中、大西洋を眺めていらっしゃる・・・(失礼、旅疲れだそです、ハイ)










大西洋を眺めながら、すぐ近くのシントラに向かう。
この海岸はコスタ・ド・ソル(太陽海岸)と呼ばれる有名なリゾート地。日本の年金生活者も何人か
暮らしているが結局は皆帰国するとか?






王宮の内部は、歴代の王によって増改築され、イスラム、インド、中国などの様式が混在している。






2004年4/kaigai/iberia/14にNHK「そのとき歴史は動いた」に紹介された「天正遣欧使節」の粗筋はこうだ。

「昨年ポーランドで、16世紀に日本語とラテン語で書かれた聖書の一節が発見された。記し
たのは、日本から初めて公式にヨーロッパに派遣された「天正遣欧使節」の若者たち。当時
の西洋人にとって、極東の未知の国・日本の若者が備えていた知性の高さが、いかに驚くべ
きものであったかを示す新史料である。

戦国時代末期、日本からはるかヨーロッパを目指した、12〜13歳の4人の少年使節。その旅
の目的は、日本人が対等に交流できる文明を持つと、西洋に認知させること。3年に及ぶ苦
難の旅。日本人として初めて目の当たりにする西洋文明の数々。少年たちは語学、古典、科
学など、さまざまな教養を猛勉強によって吸収していく。その結果、少年たちの高い知性と
礼儀正しさは、アジアに偏見を持っていた西洋の人々を驚嘆させ、その噂は全ヨーロッパへ
と広がっていく。各地で歓待された少年たちに、ついに訪れた最高権威・ローマ教皇との謁
見の時。少年たちを迎えた教皇が流した、感動の涙―。はたしてそれは、何を意味するのか?」

この少年達は1582年(天正10年)長崎を出発し、1590年(天正18年)に帰国したのだが、時す
でに遅く、キリスト教を認めた信長は既になく、秀吉の時代となってキリスト教は禁止となって
おり彼らの末路はいづれも悲惨であった。

・伊東マンショ後年、司祭に叙階される。1612年長崎で死去。
・千々石ミゲル、後に棄教。
・中浦ジュリアン1633年、長崎で穴づりによって殉教。
・原マルティノ後年、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオで死去。

長崎県大村市には「天正遣欧少年使節顕彰之像」が建てられている。この少年達が最初に
訪れたのがここシントラの王宮だそうだ。それが縁で大村市とシントラ市は姉妹都市である。






内装や家具が凝りに凝っている。






部屋が千幾つもあるそうな。




青の部屋だとか?








山の頂上にはペナ宮がある。






二本の円錐形は厨房の煙突




煙突の内部




『シントラの 少年使節 いとおしく』

シントラから再びリスボン中心へと向かう。道路の壁面にはイタズラ書きが一杯。




リスボン近郊の住宅街




リスボン中心街、坂の多い街である。








街中に大きなエレベーターがあったり、ケーブルカーがある。










警官が、ほらブッシュさんが小泉さんに贈呈した、”あれ”に乗って現れた。






昼食はサルディーニャ・アサーダとエッグタルト。
実は、単なるいわしの塩焼きにジャガイモの茹でたのですぞ、こんなもん・・・




ジェロニモス修道院






バスコ・ダ・ガマの棺










もう教会も、修道院も、石畳も結構です〜・・・








路面電車




ベレンの塔。大航海時代の船乗り達の祈りの象徴だとか。地下には潮の干満を利用した
牢獄が設けられていて、政治犯が多く命を落としたとか。




ポルトガル船が豊後に漂着した年、種子島への鉄砲伝来は1543年です。






「発見のモニュメント」
アフォンソ5世、バスコ・ダ・ガマ、アフォンソ・バルダイヤ、ペドロ・アルバルシュ・カブラル等。


こちらにはエンリケ航海王子、インファンテ・ドン・フェルナンド、ジョアン・ゴン・サルベシュ等。




何て書いてあるのか、読めません!




















<九日目リスボン→ロンドン経由帰国へ>

帰国の朝、ホテルのモーニングコールが鳴ったのはなんと3:15分、4時にホテルを出て
リスボン空港から乗り継ぎ地のヒースローへ2時間30分かけて行き、そこで5時間近く
も待ってやっと成田行きのBA007便が出発したのはkaigai/iberia/14:30分だった。もうこれだけで
11時間強、更に11時間30分かけてやっと成田・・・。ほんま、疲れるワ!

ヒースロー空港の待合所のみやげ物屋で孫に二階建てバスのおもちゃ購入。帰って裏
返してみると"Made in China"もう世界中どこへ行っても同じ事態です!!!




 
 今回のツアーは、バスの走行距離だけで2,400kmもあった。因みにこれは青森ICから鹿児島IC間
 2,100km(23時間、高速代41,200円)を上回る距離であり、どれほどのものかお分かり頂けけるか
 と思う。
 その間名所旧跡、ホテルにみやげ物やトイレと来る訳ですから、自由行動などできる余地は全く
 無かった。ただひたすら移動し、見、聞き、食べそして眠るだけであった。あッ、ご婦人方はプ
 ラスお買い物もあるが・・・。
それでも往復の機内を除いては、楽しいツアーではあった。参加された方々に恵まれたからであ る。いつもそうだが、帰国すると無性に次の計画を立てたくなるものである。足腰が立たなくな ったり、資金が底を尽かないかぎりは・・・。

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   <終り>
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