≪90文学≫


・極北クレイマー                               (16.02)

      

   医師で作家である海堂尊の「極北クレイマー(上・下)朝日新聞社」を図書館で借りて読んだ。
   財政破綻した夕張市の市民病院を舞台にした医療フィクションである。財政難の極北市市民病
   院に赴任した非常勤医師が問題山積の病院で孤軍奮闘する中、妊婦死亡を医療ミスとする女性
   ジャーナリストや厚生省の医療査定官僚の動きが市の財政難に追い打ちをかけ病院は閉鎖の危
   機を迎える。そうしたなか救世主が現れるものの前途は不明・・・といった小説である。

   ここからが面白い、面白いと言ってはなんだが・・・
   巻末の村上智彦氏が解説を書いている。
   「この小説は夕張市民病院をモチーフに書かれているが、フィクションがいつの間にかノンフ
    ィクションになってしまった」ほど登場人物などが実在人物にそっくりだと村上は書く。

   「行政の不作為、住民のお任せ意識、医師不足、看護師不足、制度疲労などで医療崩壊が現実
    に地域で広がっている。医療のみならず、地域そのものが疲弊し、少子高齢化、地域間格差
    財政難であえいでいる。夕張市は財政再建団体となり、医療機関も崩壊した現場にいる私に
    は、医療も地域経済も高度成長時代の豊かで恵まれた夢を捨てきれずに問題を先送りにして
    誰も責任を取らない無声帰任な構造が生んだ必然だと感じている」
   と書いている。得意な地域医療分野だから筆もスムーズなものだ。

   「夕張市の高齢化率は43%(2011年当時)で日本一で、財政再建団体になった唯一の市である。
   これが2050年頃には日本全体の高齢化率は40%と予想され、これを再建できれば全国のモデル
   になるのである。こうした地域医療の現場で我々は働いているのである。」と村上は言う。

   村上智彦氏は1961年生まれの医師で、2006年に夕張市立総合病院に内科医師として着任したが
   2007年に夕張市の財政難に伴い夕張市立総合病院が公営民営化された折、村上は「夕張希望の
   杜」を設立して理事長となり、病院名も「夕張医療センター」に改称した。

   村上は2012年5月9日に発生した愛人同士による殺人未遂事件の責任を取って「夕張希望の杜」
   の理事長を辞職した。2000年北海道荻野吟子記念瀬棚町医療センター勤務時には老人医療費を
   3割も軽減したり、2007年に夕張市立総合病院の再建策に尽力したと伝えられている。
   殺人未遂事件の裁判で中神真澄被告に対しては2012年11月に懲役6年の判決が出て控訴したと
   なっている。

   月刊誌「北方ジャーナル」によれば、中神被告は裁判で「村上医師を苦しめたくて事件を起こ
   した。被害者の方には本当に申しわけなく思っている」と話す一方、話し合いの呼びかけを黙
   殺し続けた村上医師の言動に失望し、「都合の悪いことをもみ消したり、持論にすり替えたり
   して逃げ続ける村上医師の言動を改めたかった」と述べた。また、村上医師が診療所の患者を
   見放したエピソードなどを具体的に述べた上で、「苦しむ人がこの先も出続けることに我慢な
   らなかった」と話していた。と掲載されている。村上には、伝えられ美談の他、こうした見方
   もあったらしいのである。

   なお、続編は「極北ラプソディ」として朝日新聞社から2011年12月に発行されている。
   (「極北ラプソディ」はNHKのTVドラマとしても2013年に放映された)
   
                                 (Wikipediaなど参照)
   

   


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・エンジェルフライト                               (15.03)           第10回開高健ノンフィクション賞を受賞した佐々涼子さんの「エンジェルフライト・国際霊柩    送還士(集英社文庫)」を読んで、初めて国際霊柩送還士なるものの存在を知った。    2003年に設立された国内初の国際霊柩搬送専門会社であるエアハース・インターナショナルの    働きぶりを佐々涼子さんが本にしたものである。        同社のHPによると「空港霊柩とは一般的な葬儀社とは異なります。 国際間でのご遺体やご    遺骨の搬送を専門に取り扱う国際霊柩搬送業者です。海外で日本人が逝去された場合、そのご    遺体やご遺骨の入国からご遺族が希望する最終目的地へのご搬送。そして、日本で外国籍の方    が逝去された場合、そのご遺体や火葬されたご遺骨を出国させご遺族が希望する外国の目的空    港へ送還します。」と説明されている。    ”国際霊柩送還”の言葉も一般的なものでなく同社の命名によるものなので知らなくて当然だ    ろう。家族に「生きているときの姿を思い出してもらうため」というよりは、「家族ときちん    と対面できるようにして、死を受け入れてもらう」。亡くなった人のためだけではなく、これ    から、生き続けていかなければならない人のために彼等は活動していると著者は書く。    本の中で出て来るエンバーミング(embalming)は「遺体を消毒や保存処理、また必要に応じて    修復することで長期保存を可能にする技法。日本語では死体防腐処理、遺体衛生保全などとい    う。」とWikipediaに出ている。外国ではこれはかなり普及しているらしく、特に米国では南    北戦争を契機にエンバーミングが広く行われるようになったようである。古くは古代のミイラ    作成もエンバーミングであり、現代では社会主義国等の主導者がこの技術で永久保存されてい    るものがある。レーニン、ホー・チ・ミン、蒋介石、毛沢東そして北朝鮮の金日成、金正日等    である。    海外で亡くなる邦人は年間500人を上回っている。(2010年549人、2011年592人、2012年537人)    今後更に増加すると思われれる。では海外で邦人が亡くなった場合はどうすればいいのだろう    か?    セキセー株式会社の「お葬式プラザ」のサイトには以下のように書かれている。    「日本人が海外で死亡した場合、まずしなければならないのは遺体をどうするかである。処置     方法としては現地で火葬するか、遺体を日本に運び国内で火葬をするかのいずれかである。     費用を考えてみると、現地で火葬して遺骨を骨壷に入れて運ぶ方が安いと思うが、一つ問題     がある。それは日本の法律では埋火葬許可証が発行されるためには、死亡届けが必要である     が、外国で死亡した場合にその国の在外公館に対して死亡届けが行なわれると、その書類が     本籍地の市町村に送付されるのは、2週間から1ケ月要するので、その間遺族は遺体の処理が     出来ないことになる。そのため、遺体をとりあえず国内に移送し、死亡者の本籍地又は届出     人の所在地で死亡届を出した方が、埋火葬の手続きが早く行なわれることになる。」    日本ではエンバーミングの習慣がなく大半が火葬で処理されてしまうが、遺体の修復や保存に    関する商品化が葬儀業界内では進められようとしている。2003年に「犯罪被害者の遺体修復費    用の国庫補助予算」が国会で成立し、海外でテロ等で死亡した外務官に公費でエンバーミング    が実施されたそうである。国内では公費による遺体の修復は北海道と埼玉県のみで行われてい    るとWikipediaに出ている。    海外旅行を漫然と旅行保険などに入らないで出かけていたが、海外で病気になったり死亡する    と数百万もの費用が掛かるらしい。今度、海外旅行する際にはしっかり保険に入ってから出か    けなければならないと思い知らされた。    参考までに下記サイトを記載する。    海外医療情報センター    エアハース・インターナショナル      海外で急逝したときの手続き → 知的好奇心の最初へ戻る → HPの最初に戻る
・大原孫三郎                                (13.07)           年に1度か2度、蒸気機関車の伯備線に乗って倉敷、岡山に連れて行って貰った記憶がある。    多分農作業が一段落した時期だったことだろうが、もう60年も前の事でよく覚えていない。    高梁川に沿って南下していく伯備線が、倉敷に到着する手前で広島方面から来る山陽本線と合    流するために大きく線路を左に曲げる。丁度そのあたりの右手に高梁川と伯備線に挟まれた一    帯に高い煙突が何本も聳え建つ工場群があった。倉敷市酒津地区である。現在はスーパーの商    業施設になっている。    ”あれが、倉レの工場なんじゃ、ぼっけえのう”と父親か母親に教えられて仰天しながら見つ    めたものだ。倉レ(倉敷レイヨン)は倉敷紡績の多角化の一環として倉敷市酒津に設立された    もので、現在も本店はここに置かれているが本社は東京と大阪にある。備中高梁の更に2駅も    下った備中川面駅で降りて更に急峻な山道を3kmほども登った集落に育った僕にとっては、    こんな大工場は見たこともなく、興奮しながら見つめたものだ。    倉敷紡績(クラボウ)の工場は現在の倉敷駅の南東にある倉敷アイビースクエアーとして現在    も保存されている。こちらも本店は倉敷市本町ではあるが本社は大阪となっている。クラボウ    もクラレもどちらもこの大原孫三郎が手掛けて育てたものである。    この兼田麗子著の「大原孫三郎 ―善意と戦略の経営者(中央新書)」を読むまでは、大原孫    一郎にしろ、大原総一郎にしろ倉敷紡績の一経営者だろう、程度にしか認識が無かった。どう    せ大会社の世襲道楽経営者なんだろうと思っていた。    ところが、孫三郎は早稲田を中退するまでは、現在のお金で1億ほどの放蕩三昧をやったが、    倉敷に帰って社業を行いだしてからは銀行、電力会社も経営しつつ、病院や美術館、民芸館等    も創設して地元の町づくりに多大の貢献をしている。他に大原奨農会農業研究所、大原社会問    題研究所、労働科学研究所と三つの科学研究所を創設して社会の問題の根本解決を図ろうとし    ている。これらは現在でも引き継がれ、岡山大学資源植物科学研究所、法政大学大原社会問題    研究所として現存し、労働科学研究所は拠点を東京から川崎に移して活動を展開している。    これらの研究所はビジネス面では殆ど直接には何も役立つものは無かったし、社会問題研究所    などは大内兵衛や川上肇等が出入りし「マルクス主義の巣窟」とまで揶揄されて大変な反対に    会い、官憲からも睨まれたものであるが、孫一郎は止めようとせず多額の援助をし活動を継続    している。社会問題研究所の所長を務めた法政大学名誉教授の二村教授によると、1918年    の創立からの21年間だけで185万円の資金を孫一郎は提供したいう。現在の価値価格に換    算すれば最低でも93億円、最高比較では180億円にも達するという。    孫三郎はまた、観賞を主とする貴族的美術品よりも用と美を両立する民芸品に共鳴してその保    存、保護をするため東京駒場に日本民藝館を設立している。陶芸家の濱田庄司や柳宗悦、河井    寛次郎、富本憲吉等とも交流し援助をしている。孫三郎は濱田を訪ねて栃木の益子にも何度か    訪問している。孫三郎が面白いのは、焼き物も観賞だけではなく、濱田の大皿にカレーを盛っ    て客に供するなど”用”をも重視した事などである。大原美術館は児島虎二郎との信頼、友情    をもとに、東京ではなく地方の倉敷に「日本最初の本格的西洋美術館」を社会貢献の意味を込    めて設立した。尚、児島虎二郎は高梁市成羽の出身である。他に岡山出身の著名な画家では雪    舟、浦上玉堂や竹下夢二などがいる。東京スカイツリーには津山出身の鍬形恵斎が描いた江戸    一目図屏風のレプリカが飾られている。         (文化遺産オンラインから借用したもので、明暗、コントラストを調整しています)    著者の兼田は、同時代の著名な企業家である渋沢栄一や鐘紡の武藤山路を登場させてこう比較    している。    「渋沢栄一はグローバルな視点を持って公共性を民間で実践した人物であり、武藤山路は渋沢     の実践を引き継ぎ、更に進歩的な施策で労働環境を改善している。孫三郎は前二者よりも後     の人で、現代的な思想と手法で社会の改革を目指したとしている。なかでも、下からの公共     性や市民社会的な実践、そして多面的で普遍的な社会文化貢献を成したとしている。」     (渋沢栄一 埼玉の三大偉人)    大原孫三郎がこのような偉大な経営者だったとは思ってもみなかった。この本を寄贈してくれ    た岡山在住のいとこに感謝する次第である。     → 知的好奇心の最初へ戻る → HPの最初に戻る
・奇跡の時代 (13.07)           カレン・トンプソン・ウオーカー(Karen Thompson Walker)の奇跡の時代(The Age of MIracle)    (角川書店/雨海弘美訳)は辛口の書評で通っているニューヨーク・タイムス紙も評価する小説    である。    カリフォルニアの太平洋近くの、海は見えないそう高級でない住宅地に住むヒロインの少女ジ    ュリアンが、後に大人になって手記を回想する形で物語が進行する。ジュリアンが11歳の秋の    ある日突然に地球の自転速度が遅くなる事態に遭遇する。それはスローイング(減速)といわ    れ、日一日とスローイングが増長し、一日が25時間、26時間と延びていくのである。それ    に伴って当然ながら昼の時間も、夜も伸びていき、時計時間では朝なのに真夜中であったり、    時計では夜なのに太陽が真上に来ていたりするのである。    このことによって動植物に致命的な影響が出て自然界は崩壊し、人間の社会も著しい打撃を受    けることになる。その様子を11歳の思春期に差し掛かったジュリアンの目線で丹念に描く。ジ    ュリアンは、大人たちが世界の終末が来たと大混乱と混沌に陥るなか、それらを尻目に、学校    や近所の友達や好きな男の子との関係に関心を示す様子が描かれる。一年後にはついに地球の    磁場に亀裂が生じて大量の放射線が地上に降り注ぎ、人々は核シェルターを建設してその中に    生活せざるを得なくなる。最後には一日が何週間にもなってしまう。    現在でも高緯度の南極や北極ではこうした事は起きていて、何か月も日が沈まなかったり、夜    が続いたりしてはいるが、それが低緯度の地域でも起きるという設定である。この小説は既に    映画化が決まっているそうで、そのうち映画館でも見られるそうだ。                            (Wikipediaより借用)           ところで地球の自転はこの写真のようであるが、その速度は1,674km/hで秒速だと0.465km    /sである。この速度はこの小説のように少しづつ遅くなっているのだそうだ。その要因として    は地球の形、気候、海洋の深さや海流、地殻変動の力や潮汐摩擦、地表の凹凸等があるようで    あり、46億年前の地球誕生当時は一日は5時間程度だったものが、現在は24時間になったと    の事である。更に太陽の周りを周回する公転速度は10.7万km/h(29.7km/s)である。    自転速度は赤道上のもので、これを北緯35度の日本の緯度で計算すると1,374km/hになる    そうです。大体旅客機のスピードがこの程度であり、南回りで西洋に飛ぶと、少しづつは遅れ    るものの、現地に着いても日本を出た時の時間を少し遅れた時間となる。だから成田を出てす    ぐに寝てしまうと、現地に到着しても機内での時間が無かったことになり寝ていたので体力も    保持できていて、成田での時間の続きをそのまま行えることになる。勿論、帰りはその逆とな    るので損得はありません。    もし1,300km/h程度の飛行機で地球の自転速度に合わせて西方に飛び続ければ、時計時間で    は飛び立った時間が到着時間と同一となる。 → 知的好奇心の最初へ戻る → HPの最初に戻る
   ・置かれた場所で咲きなさい(13.07)    「珠玉の一冊」と言ってよい本である。ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんの書かれ    た本である。「置かれた場所で咲きなさい(渡辺和子・幻冬舎)」は100万部を越えるベスト     セラーとなった。    岡山に在住しているいとこが、ノートルダム清心学園に関係していたためこの本を送ってくれ    た。これまで宗教には殆ど関心を持たないで生きてきたので、聖書の簡易版かな程度に思って    いたが、”今ある所で努力し、花開く生き方を”数々の困難を乗り越えてきた、実体験に基づ    く言葉で綴った珠玉の一冊であった。     渡辺和子さんは、学校法人ノートルダム清心学園の理事長。1927年(昭和2年)北海道旭川市生    まれ。二・二六事件(1936年・昭和11年)で青年将校に襲撃された渡辺錠太郎教育総監の次女。    ひねくれ者の僕は最初この本の題名からして、「体制に順応して、妥協しなさい」ってことか    と思いましたが、読み進むうちに「置かれた場所で咲くということは、現実から逃避せずに現    状を見極め、それを認めること。そのうえでそこで出来る限りのことをして、自分という花を    咲かせることなのです。」と説かれて自分の狭隘さに、この歳(昭和20年生まれ)になってや    っと気づいた始末です。クリスチャンでもなく、敬虔な仏教徒でもなくまして回教徒でも無い    兎に角いい加減な無知蒙昧な僕は、この手の本は見向きもしなかったものだ。    渡辺さんはこう言う。    「まわりが咲かせてくれると思ってたとか、まわりがよくなったら咲けると思ってたとか、そ     ういう気持ちでいた方が、まわりがどうであろうと、とにかく置かれたところを居場所とし     て、そこでお咲きなさいという強い言葉に引かれたのでしょうか。咲くということは、仕方     がないとあきらめるということではなくて、笑顔で生き、まわりの人も明るくして、神様が     そこにお植えになったことは間違いではなかったことを示しながら生きることなのです」    この本はこのサイトの「文学」の項目ではなく、「生きる」に置くべき性質の内容である。    以下特に感心した事柄を抜粋してみよう。    * 人はどんな場所でも幸せを見つけることができる      どんなところに置かれても花を咲かせる心を持ち続けよう。      境遇を選ぶことはできないが、生き方を選ぶことは出来るので「現在」というかけがえの      ない時間を精一杯生きよう。    * 不機嫌は立派な環境破壊です!      時に、顔から、口から、態度からダイオキシンを出して大気を汚染し、環境を汚し、人の      心を蝕んでいるので、不機嫌にならず笑顔でいよう。微笑みが相手の心を癒すのです。    * いつ、何が起きるかわからないから、いつも準備をしておく      「信号機が青のときは、一度赤になるのを待って、次の青で渡りなさい。途中で赤になる       と危ないから」と母親に教えられたそうです。          * 2%の心のゆとり      信頼は98%。あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておく。    ほかにも珠玉の言葉が散りばめられているこの小冊は、開高健の本と並んで僕に座右の銘とな    ることは間違いない。          → 知的好奇心の最初へ戻る → HPの最初に戻る
・俳句の「切れ」(13.04)    少しもうまくならないが、ここ何年か写真俳句をやっている。俳句は明治の初めに正岡子規が    連句から独立させたものである。芭蕉の頃は連歌(連句)の頃であり、連歌の一句目は発句と    言って重要視され「季語」と「切れ」を入れるしきたりになっていた。二句目の脇句、三句目    も大切とされた。4句目から最後の36句目までは平句とされ、36句目を挙句として一巻の    終わりとなった。(”挙句の果て”の諺はここからきている)        俳句は5・7・5のたった17音で記述されるが、他に「季語」と「切れ」を入れなければな    らない。「無季」や「一物仕立て」のように季語の無いものや、「切れ」の無いものもあるが    基本形は「17音・季語・切れ」である。    なかでも「切れ」の役割は極めて大きい。「17文字で表現するには、この文字の制限を逆に    抵抗体として特色にすることである。17文字は氷山の一角としながら感動を堰き止めて「切    る」ことによって、事細かに述べるよりも感情を物(事)に託さねばならない。「切る」こと    によって想像をより広げることが出来るのである。詠嘆、強調、願望、疑義、命令、呼びかけ    のときもこの「切れ」の効用を利用するのである。(五七五の力/石寒太・毎日新聞社刊参照)」    かように「切れ」は俳句には欠かせない要素である。    俳句を「や・かな文芸」と揶揄する向きもあるが、「切れ」では「や」「かな」そして「けり」    をしばしば使う。「けり」は更に「にけり」「てけり」「たりけり」等として感動を表すもの    としても使われる。         「切れ」に関して面白い話がある。     閑さや岩にしみ入る蝉の声    これは見事に「閑さや」で切れている句で、「奥の細道」に収録された名句である。この蝉に    ついて一匹かまたは多くかとか、鳴いている蝉は何蝉なのかと言う論争があった。この句は元    禄2年5月27日(新暦だと1689年7月13日)に山形の立石寺で詠んだ句であって、この時期にこ    の地で鳴いているのは沢山のニイニイゼミだろうと言う結論になっている。    さて、以降はやや下卑た話になるが、芭蕉は衆道であったとの説がある。彼は伊賀上野の藤原    良忠の扈従(小姓と同じ)であったが、良忠の衆道の相手をさせられたらしい。衆道は遠く平    安、鎌倉の時代から武士、僧侶の間でかなり行われていたようで、かの織田信長、上杉謙信、    武田信玄等の衆道はどうも史実らしい。芭蕉は衆道を主人の良忠に連歌とともに教えられたと    いう設も出ている。他に忍者ではなかったかとかもいわれるが、これはないだろう。        上の名句の「岩にしみいる」はその行為の痛みを表現したもので、芭蕉は為に痔に苦しんだと    する説もある。「悪党松雄芭蕉」(嵐山光三郎著)では相当悪い事まで書いてある。しかし何    はともあれ、こんな事ではこの名句は揺るぎもしない。彼は性同一性障害でもないし、嗜好と    して衆道をやった訳でもない。当時の身分制度の下では、主の意向でこうした事は普遍的に行    なわれていたようで、拒否する術はなかったようである。

























・脱出記 (12.09)
   ポーランド人スラヴォミール・ラヴィッツの脱出記「シベリアからインドまで歩いた男たち」
   (ヴィレッジブックス社・海津正彦訳)は6,500kmを、極寒のシベリア、モンゴルの大平原、
   そして灼熱地獄のゴビ砂漠、5000mを越えるヒマラヤ山脈ご越えと完全装備でも踏破困難な
   ルートを収容所脱走の殆ど何も持たない状態で踏破した男たちの物語である。

    
   
   ポーランド陸軍騎兵隊中尉だったスラヴォミール・ラヴィッツは、第二次世界大戦中にソ連当
   局にスパイ容疑で逮捕され、苛烈な拷問の末、シベリアの強制収容所送りとなる。25年の刑期
   を課せられ果敢(無謀)にも脱出し、1年余りをかけてインドにたどり着きイギリス軍に助け
   られ、イギリスに渡って同国人女性と結婚する。2004年に88歳で生涯を閉じる。

   ヒマヤラの雪男(イエティ)は世界中の注目を集めたが、イギリスの新聞の雪男探検隊の派遣
   に先立って目撃談探しをしていたイギリスの新聞記者がイギリス在住のポーランド人が雪男を
   目撃したとの情報を得て会いに行き、話を聞いた相手がスラヴォミール・ラヴィッツであった。
   彼は雪男情報はサブストーリーであり、この脱出こそがメインストーリーであると熱く語り、
   これを聞いた新聞記者はその脱出話の虜となった。その後この体験談を本にするよう新聞記者
   はラヴィッツを説得し、1年以上に渡って男の記憶を辿って聞き出し文章化したのが、この脱出
   記であると訳者が巻末に記している。ヒマラヤ山中でラヴィッツ等は2mを越える雪男に遭遇
   した記述もある。

   椎名誠が巻末の解説で、この脱出ルートのかなりの地域に椎名自身がかって実際に足を踏み込
   んだ場所もあるが、その過酷さは言語を絶する所であると述べている。唯一救われる思いがす
   るのは、モンゴル平原で蒙古人の親切さに接する場面である。西欧を蹂躙した蒙古軍の凶暴さ
   は、個々の蒙古人には微塵もないようで、その親しさと優しさが印象深い。

   2010年にピーター・ウィアー監督によって映画化された。
   2012.9.8日に関東では銀座シネパトスで封切られるので見に行こうと思っている。

    































・3.11 死に神に突き飛ばされる (12.01)
   文芸評論家加藤典洋のこの本は「文学」の範疇で載せるにはためらいがある。なぜなら、本の
   内容が大半、福島原発事故を契機とした原発のことに終始しているからである。だからこの項
   は時事話題にも載せる事にする。(知的好奇心の「文化」にも掲載)

   加藤の結論は以下のようである。

   「原子力の平和利用については、湯川秀樹や武谷三男らの構想した方向で進められていたな
   ら、上手く行ったかもしれないので、その判断は保留する。しかし平和利用の歩みは3.11の
   福島原発で破綻したのであるから、できるだけ段階を踏みつつ代替エネルギーに変えていく
   べきであるとする。その間、原発はつなぎとして維持するが、核燃料サイクルを放棄して、
   原子力の平和利用を国際社会に宣言しなければならないとする。」

   核燃料サイクルは、原発の使用済燃料の再処理により取り出したプルトニウムを、高速増殖
   炉で燃やし、燃料価値のなかったウラン238から燃やした以上のプルトニウムを取り出す「夢
   のリサイクルシステム」であり、資源小国の日本にはうってつけのシステムであった。しかし
   このプルトニウムは容易に原爆に転用出来る代物で、2011年で日本は既に50トンを超える量を
   保有している。長崎に投下された原爆が1,000個ほども作りうる量である。北朝鮮が保有する
   量は50kg程度に過ぎないと言われている。

   日本は非核三原則により、核兵器をもたず、つくらず、もちこませずが国是になっているはず
   であるが、原爆の材料となるプルトニウムは既に大量に持って居て、決断さえすればいつでも
   短期間の内に核兵器を保有できる能力を潜在している国家であることは、世界の何人も認める
   ところである。これは「技術抑止力」として国際的に攻撃や挑発を受けないものとして機能し
   ている。

   今次大戦で世界で唯一二度に渡り核攻撃を受け、想像を絶する被害をうけて反核、非核方針を
   世界に向けて発信したはずの日本で、平和利用に限るとして核燃料サイクルに固執していた政
   ・官・財・学村のもう一つの狙いは上記の「技術抑止力」の保持にあった。

   加藤は寺島実郎や立花隆さえ、今なお核燃料サイクルや「技術抑止力」による平和利用と軍事
   使用の峻別を明確にしていないと批判し、村上春樹が2011年6月にスペインのカタルーニャ国
   際賞授賞の講演で次の様に述べた。村上は「だからわれわれは再生するに当たってその足取り
   を、「効率」や「便宜」という名前を持つ厄災の犬たちに追いつかせてはならず、力強い足取
   りで前進する「非現実的な夢想家」たらねばならいと、小説家らしい表現で言う。

   加藤は以下の様に締めくくる。
   「原子力平和利用に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求」するという目標を置
   くべきだとする。それこそが、原爆のエネルギーを平和利用へと祈念させる被爆者の内在的動
   機で、権利であるとする。文芸評論家的いいまわしである。

    

   2012.1.10の朝日の社説で、日本原燃が核燃料の再処理の試験運転を再稼働することに疑問を
   呈している。青森県知事の原子力安全対策の了承と、青森県の検証委員会の電源対策の有効性
   評価を受けての運転だが、「安全神話と低コスト幻想」が福島原発事故後に崩壊したあとの原
   子力事業の見直しが始まろうとする矢先の事業継続の既成事実の積み上げ意図であると、糾弾
   している。
   日本原燃は青森県最大の会社で、資本金で比べるなら資本金2000億円は2位のみちのく銀行の
   約6倍もの規模であり、地元経済界への影響は絶大である。多額の原発交付金目当ての首長の
   運転再開依頼であることは誰しも思いつく。核燃料サイクルについては、その放棄をフランス
   インド、中国以外は実行したのであるから、我が日本もその世界の潮流に逆らうべきではない。


   






























・ニューギニア戦歌集 (10.04)

       

    内貴直次さんがお書きになった「ニューギニア戦歌集(文芸社)」は壮絶な戦歌集である。
   内貴さんは、ニューギニアで米軍の砲弾を受け、片足切断されたあと飢餓に苦しみ、マラリ
   ア熱に冒されつつも奇跡の帰還を果たされた。大正10年のお生まれだから平成22年の今日は
   89歳のご高齢ながら毎日千メートルの水泳をされる大和男子である。

    小野田寛郎氏が「ニューギニア戦歌集」に同書の寄せ書きとして以下の様に書かれている。

   ・・・敗戦の結果、日本人は誇りを失いました。同時に戦前を否定し、戦争は『悪』と簡単
   に決めつけたために、多くの戦争体験者は口を噤んでしまいました。60余年後の結果が
   今日です。論ずるまでもないことですが、これで日本人だと胸を晴れるでしょうか。
   『美しい日本』という声が聞こえるようになりました。漸く誤りに気付いた感じです。
   今、この歌を読んでみて下さい・・・・この歌集から日本人の魂の底にあるものを呼び起し
   て、光輝ある日本になって欲しいと願っています。

   写真は「ニューギニア戦歌集」より借用
    
   左が内貴直次さん、右が小野田寛郎さん

   『正義人道のヤマトダマシイを失わぬ日本人でありたい』
   最近の内貴直次さんの言葉である。

   部分プレビュー → この本の一部を読む事ができます。































・相原真理子(10.02)

           
   

   翻訳家の相原真理子さんが若くして(62歳)で亡くなった。誠に残念である。
   相原さんはパトリシア・コーンウェルの“検屍官”シリーズや、アメリカの絵本作家ターシャ・
   テューダーの翻訳などで知られている。

   彼女は慶應義塾大学文学部英文学科卒業後、直ぐに結婚し主婦をしていたが、リーダーズダイ
   ジェスト日本語版の翻訳に携わり、後に同社が翻訳版を廃止すると翻訳業に専念し多くの翻訳
   を手がけた。

   “検屍官”シリーズでは随分と彼女の名翻訳に唸らされたものである。同書の中で、検屍官ス
   カーペッタの難解な医学用語やスカーペッタの姪でITに滅法詳しいナンシーのIT用語を完璧に
   翻訳されている。慶応では英文学科卒業のはずであるが、相当の専門用語知識が無いと難しか
   ったのではなかろうか?

   相原さんの翻訳でない”スカーペッタなんて”・・・。 
































・小説・羆撃ち(09.09)

           
    この夏、鹿屋で牛飼いをしている義兄に勧められて読んだ「羆撃ち」(久保俊治著、小学館
   2009年)は面白かった。

    日本にもまだこの様な人物が居て、しかも1947年生まれだからまだ62歳と若いのに驚かされ
   る。
   その略歴は以下のようである。

    『1947年小樽市生まれ。20代より、日本で唯一の羆ハンターとなる。75年にアメリカの
   「アウトフィッターズ・アンド・ガイズ・スクール」に東洋人として初めて入学。76年に帰
   国後は北海道標津町で牧場を経営しながら猟を続ける。妻と2人の娘との生活を追った北海道
   放送のテレビドキュメンタリーシリーズ「大草原の少女みゆきちゃん」は大きな話題を呼び、
   86年度文化庁芸術作品賞ほか各賞を受賞。現在標津町在住。』
   
    本の前半では、北海道の大自然に分け入って、ハンターとして成長する様子が、その厳しい
   自然の中で鋭い自然観察眼と共に描かれ、後半は米国でのハンター教育を受け、後に帰国して
   愛犬、否真に心を通じた相棒の猟犬との猟の様子が描かれている。

    ハンターのみで生活が可能だった事も驚きだが、ハンター故に獲物を狩るには何の躊躇もな
   く引き金を引き、止めを刺し、解体する場面には少々だじろぐ。今や肉と言えば綺麗に飾られ
   たものしか扱った事しかなく、鶏1羽殺して解体した経験も無い大多数の我々は、牛馬や豚の
   屠殺解体など遠い世界の出来事になってしまっている。最近では魚の下しさえも出来ない人が
   多くいるそうだが、こうした動物や魚等の命を貰って生きている事の認識の欠如が恐ろしい。
   
    そうした命の正しい認識の欠如の元で、バーチャルなTVゲームや映画、漫画等の世界でいと
   も簡単に命のやり取りをするが、こうした事が近年の行きずり殺人等の背景にあるのではない
   かとも危惧される。この本では、こうした”命”の大切さを懇々と説いてもいるのである。
    
  
        

    それにしても、熊、北海道にだけ生息している羆はとりわけ凶暴である。大型のものは3m
   400〜500kにもなるものもいて、牛なども簡単に襲うものもいるらしい。”熊のぷーさん”と
   か”ベアーズの縫いくるみ”とか人間に親しみを持つ動物として往々子供に教え込むが、あの
   パンダにしてもその目を御覧なさい、実は凶暴な目をしていて事実凶暴な動物なのである。
   
    熊の側も人間は避けるように生活しているが、生存環境が破壊されたり、餌が不足したり、
   人間が作った食料の味を覚えたりすると、または偶発的に出会ったりすると人を襲うらしい。
   牛等は簡単に襲って食べるそうだが、食べ残しは土の中に隠しておき後で掘り返して食べる
   習性がある。だから人の味を覚えた熊がいる地方では土葬は出来ないそうだ。
、
    羆による人的被害は毎年発生していて1970〜2000で60件発生している。(北海道のみ)
   1915年(大正4年)に発生した「三毛別(さんけべつ)羆事件」は最大の犠牲者を出したもので
   凄惨な事件だった。
     
             

  → 三毛別羆事件(Wikipedia)

    →薩摩守さんの「戦国房」・北海道苫前郡羆害事件
    http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/8151/rokusentaku.html
    
    →羆と事件(Naohiro Izumi さんのHPより)
    http://homepage1.nifty.com/~n_izumi/higuma/jiken.html
    等はその状況を生々しく伝えている。

   この事件を題材にした小説に
   『羆風(くまかぜ)』  戸川幸夫 著 新潮文庫 1965年
   『羆嵐(くまあらし)』 吉村昭 著 新潮文庫 1977年 
   『青い闇の記録』    畑 正憲 毎日新聞社 1973年
   『慟哭の谷』      木村盛武 共同文化社 1994年
    等がある。
   いづれも羆の凶暴さを余すとこなく書かれている。こうした羆撃ちを単独で行った久保俊治
   さんの胆力・知力・体力には恐れ入ってしまう。
































・かぐや姫(09.08)

           
   竹取物語の「かぐや姫」は誰もが知っているお話だ。
   幼少の頃、話を聞かされたか、本を読んだかのどちらかだったろう。
   でも何となく好きになれなかった。竹から赤ん坊が生まれるはずもなく、何故男達がああまで
   でして姫に取り入ろうとするのか、理解できなかった。

   物の分別が分かる歳になってからは、全く見向きもしなかった。普通の男子ならそうだろう。
   で、60歳を幾つか過ぎて、ひょんな機会で「かぐや姫」の文学座公演を09年8月に東京・日生
   劇場で見た。

   そのパンフレットによると、同様の物語はアジアにも西洋にもあるらしい。とりわけチベット
   の「斑竹姑娘(パヌチウクーニャン)」は結婚を申し込む男5人に難題を課す点がそっくりな
   んだそうです。




       



   
    歌人の俵 万智さんはこの物語についてこう言っておられる。
   ★石造皇子・・・・・・適当なニセモノで済ましている。→誠意がない。
   ★車持皇子・・・・・・精巧なニセ物を作るが、代金の支払いをせずばれる。→詰めが甘い。
   ★阿倍右大臣・・・・全て金で解決しようとする。→金で買えないものもあるのだ。
   ★大伴大納言・・・・人に任せてうまく行かず、自分がやって酷い目に合い逆恨みする。→見苦しい。
   ★石上中納言・・・・自分で努力したが失敗し命を落とす。→同情に耐えない。かぐや姫も評価した。
   ★帝・・・・・・・・・・・・無理強いはしなかった。→姫との文通に成功した。
   ★翁・・・・・・・・・・・・老醜を晒し最後まで取り乱す。→最後には、不老不死で悩みも無く美しい月の
           人に比べ魅力的と見える。

    彼女の男性評は正鵠を射ていて、まことに鋭い。
   この物語は子供から大人まで、読む人によって、時代によって、また年齢によって様々な種を心
   に撒いてくれる、「古典」なのだと言う。

   どうです、貴方も今度の十五夜には、月見をしてみては!
   千年を経てもいまだ新鮮なこの「竹取物語」の世界に浸ってみては如何かな・・・・。
 
       
































・開高健

      
   1989年に58歳で開高健が亡くなってなんと20年が経とうとしている。いつも気になっていて、
   なかなか実行できなかった事がやっと出来た。

   2008年9月12日、思いついて開高健の記念館に行ってきた。開高健については、皆さんよくご
   存知の通りであろうが、詳しくはNET等でお調べ願いたい。

   開高健記念館訪問記です →開高健記念館訪問記1
                開高健記念館訪問記2
                開高健記念館訪問記3

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