*** 痴的好奇心***
 
00総記 ・Q&Aサイト ・海外日本語フリーペーパー(2010.01)
20歴史 ・花燃ゆ(杉 文) (2015.01)  ・五大友厚 (2016.02) ・マルセル・ジュノー (2016.07)
・松永安左エ門(2012.01) ・志木の地名(2013.05) ・安岡正篤(2014.07)
・新選組・谷三兄弟(2011.12) ・上杉鷹山(2011.02)   ・龍馬の新婚旅行(2010.07)
・山中鹿之介(2010.07) ・地上絵はナスカ以外にもある(2010.06) ・フルベッキ写真(2010.04)
・小栗上野介(2010.03) ・ラストサムライ・林忠崇 ・忍城
・熊田恰(くまたあたか)(2010.00) ・日本が目覚めた戦争 ・山田方谷 
30社会科学 ・LCC (2013.06) ・洋式便座での小便 (2015.11)
・世界の交通事故(2010.02) ・桜葬(樹木葬) ・カニバリズム(人肉嗜好)
・ハロウィン ・エンディングノート (16.9.9) ・直葬
40自然科学 ・日本消滅巨大噴火 (2014.10) ・『幻の洋梨』コミス (2015.11)
・地球の最後(2013.08) ・SETI(地球外知的生命探査) (2014.01) ・重力波観測 (2014.03)
・宇宙の終焉(2013.08) ・ビールは体にいい!(2013.05) ・雪男 (2013.06)
・大西洋を渡った新人(2010.09) ・墨田川上流柳瀬川の鮎(2010.08) ・万年青(2010.03)
・世界一の桜の名所 ・世界三大紅葉 ・人間の寿命
・人間は死んだらどうなるか ・縁起物(一両〜万両) ・寒桃(冬桃)
・癌の話 ・小さな生態系(2013.03) ・ムペンバ効果(湯は水より早く凍る?)
・われわれはどこへ行くのか? ・人類は絶滅するか? ・最強の生物はなんだろうか?
50技術・工学 ・ゲノム医学 (2016.09) ・AI (2017.03)
・マグネシウム循環社会 (2013.07) ・最近のトイレ (2013.11) ・静電気防止 (2015.01)
・夢のエネルギー製造装置 (2011.06) ・50℃洗い (2012.09) ・西松屋ガラガラ経営 (2012.12)
・LTE (2010.12) ・安全カミソリ (2010.12)・エコガラス (2010.11)
・ミラーレス・レンズ交換式カメラ (2010.11)  ・温水洗浄便座 (2010.09) ・ハイブリッドカー (2010.08)
・温泉施設・温水プールの省エネ ・電子書籍 ・GPS
・アンビエント情報社会 ・プーアル茶 (2010.02) ・セッキフェ
・青と緑 ・遺骨処理「メモリアル・ダイアモンド」 ・失敗学(2011.06)  
70芸術・美術 ・フジサンケイクラシック(2010.09) ・エージシュート(Age Shoot) ・41歳で初優勝の五十嵐雄二プロ
・ドライバー飛距離 ・ゴルフ・ドライバー ・呼吸法
・トレイルランニング ・正心調息法 ・スロージョギング
・富士登山競争 ・スーザン・ボイル(Susan Boyle) ・おくり人
・笑点 (2012.11) ・ホキ美術館(2015.05)
90文学 ・極北クレイマー
・ニューギニア戦歌集(2010.04) ・相原真理子(2010.02) ・小説・羆撃ち
・かぐや姫 ・開高健 ・加藤典洋
・脱出記 ・俳句の「切れ」 ・置かれた場所で咲きなさい(2013.06)
・奇跡の時代 (2013.07) ・大原孫三郎 (2013.07) ・エンジェルフライト (2015.03)
  <分類は日本十進分類による≪10哲学≫ ≪60産業≫ ≪80言語≫の項目は現在の所無し>
   社会科学 <政治、法律、経済、財政、統計、社会、教育、風俗習慣、国防>
   自然科学 <数学、物理学、化学、天文学、地球科学・地学、生物学、動植物学、医学>


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≪00総記≫


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≪20歴史≫



・ マルセル・ジュノーとオバマ大統領  (17.07)
    マルセル・ジュノー博士              原爆の惨状(原爆資料館)      
             
    広島に来るのは何年ぶりだろうか、とても長い時が経ってしまった。今度、岡山で法要があ
    って慌ただしくそれに参列して帰りに広島まで足を伸ばした。

    広島では、お決まりの「お好み焼き」を食べて、翌日は宮島観光も行った。
      
    
    今年(2016.5)には伊勢志摩サミットのついでにオバマ大統領が広島を訪れるという出来事
    があった。米国の姿勢としては原爆投下は正当化するためにも決して謝罪はしないのである。
    戦争終結を早め、米国兵の犠牲を減らすためには原爆投下は正当な理由であったと、今でも
    教育、宣伝している。ポツダム宣言をもう10日程も早く受諾していればこの惨状は避けら
    れたはずである。

    しかしひどいもので、当時の新聞はポツダム宣言を「笑止、対日降伏条件」、「笑止! 米英
    蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」「笑止千万」等
    の見出しで各新聞社が報じており、国民の多くがこのような意識下にあったとすればトルーマ
    ン大統領の原爆投下許可命令も、軍や政府そして新聞の報道に見られるような狂気の催眠状態
    にある野蛮な人種へのショック対策としては選択肢の一つとして執られたのだろう。しかし、
    投下後の仕業や広島に続けて長崎までにも原爆を投下した事を考えると、これは決して許され
    るものではない。広島はウラン325、長崎はプルトニウムが核燃料として使われている。投
    下後にやって来た米国の原爆調査団は被爆者の救助はしないで人的物的な被害状況の調査だけ
    を行って、もし核戦争が起きた場合にどうすれば被害が減るのかだけをそして、どの種類の原
    爆が威力があるのかを目的に調査を実施したようである。人道のカケラも見えないのである。

        

    しかしこの表題に掲げたスイス人のマルセル・ジュノー博士(Dc Marcel Junod)は違った。
    広島に原爆が投下された8月6日、赤十字国際委員会 のスイス人ジュノー博士は、「連合軍の
    捕虜調査のため日本に向かう途中だった。到着後、原爆投下後の惨状に驚愕し、マッカーサ
    ー総司令官に15トンの医薬品提供を交渉、自らも広島に入った。原爆投下後に医療活動を行
    った「最初でただ1人の外国人医師」を、広島では「ヒロシマの恩人」と呼ぶ。」とwikipedia
    に書かれている。ジュノー博士は赤十字団が帰国後も広島に残って治療を続け、1万人以上の
    被爆者の命を救ったという。



    【オバマ大統領広島演説 (2016.5.27)】

    71年前。雲ひとつない晴れた朝、空から死が舞い降り、世界を変えた。閃光と火柱が全市を破
    壊し、人類は悟ったのだ。人類滅亡の道具をついに手にしてしまったことを。

    どうしてわれわれはここに来るのか? この広島に。それは、そう遠くない過去に凶悪な力が解
    き放たれた事実に思いを馳せ、犠牲になった10万人余りの日本人、数千人の韓国人、アメリカ
    人捕虜十数名の霊を慰めるためだ。

    死者の魂はわれわれに問い、内省を促す。おまえはいったい何者なのだ、どこへ向かうのだ、と。
    広島は、戦争だけでは語れない。人が暴力で争うのは原始の時代からあることだ。埋蔵物からも
    わかるように、人類の先祖は石を穿って刃をつくり、木を削って槍をつくる術を会得し、これら
    の道具を狩猟のみならず同胞の種に対しても行使した。

    どの大陸を見回しても文明史は戦争だらけだ。穀物が足りないと言っては戦争、金が掘り起こさ
    れると戦争で、愛国心なり宗教熱が火に油を注ぐ。帝国は栄えやがて滅びる。人は服従を強いら
    れやがて解放される。その時代のはざまで罪のない人々が苦しみ、無数の命が露と消え、その名
    は時の流れとともに忘れ去られていった。

    広島・長崎で無残な終焉を迎えた先の大戦は、富と権力の頂点に立つ大国同士で争われた。どの
    国も世界を代表する都市と芸術を生む文明を誇り、いずこの国でも思想家は正義・調和・真理に
    対し先進的な考えを持っていた。にもかかわらず、進化もロクにしていない部族同士の争いと何
    ら変わらぬ支配征服欲の本能に任せて戦争は勃発し、大昔から何度となく繰り返されてきたワン
    パターンな争いが新たな道具の登場でエスカレートした。それを阻む新たな枠組みもないままに。

    結果、ものの数年のうちに世界で6000万人もの人々が命を落とした。男、女、子ども。われわれ
    と何ひとつ変わるところのない人々が。ある者は撃たれ、ある者は殴られ、連行され、爆撃され、
    投獄され、飢えさせられ、ガスを吸わされて死んでいった。その戦争の爪痕は世界中に残ってい
    る。武勇を今に語り継ぐ記念碑もあれば、語るのさえおぞましい蛮行を無言で伝える墓場やがら
    んどうの収容所跡地も...。

    だがしかし、この上空に昇ったあのきのこ雲の光景ほど、人類の中核に存する矛盾を鮮烈にあら
    わしたものはないだろう。人類を人類たらしめる閃き、思想、イマジネーション、言語、道具づ
    くりの営み、自然から人類を隔て、自然を意のままに操る能力。こういった人類を人類たらしめ
    る力こそが、未曾有の破壊の力を人類に与えたもうた。これを矛盾と言わずしてなんと言おう。

    われわれは目先のモノの発達や社会の変革に気をとられて、この真実から目を背けることがあま
    りにも多い。高邁な義の名のもとに暴力を正当化するということがあまりにも安易に行なわれて
    いる。偉大な宗教はどこもおしなべて愛、平和、正義の道を教える。それなのに信仰を理由に人
    を殺す信者がどの宗教にも必ずいる。信仰が殺人許可証と言わんばかりに。

    国はストーリーを喧伝して国民の心をひとつにまとめ、国民の犠牲と協力のもと国家は目覚まし
    い発展を遂げる。ところがそれと同じストーリーが異文化の人については、人を人とも思わなく
    なり抑圧が当たり前になる方向に国民を誘導するために利用されてきた。

    科学の発達で人類は海を越えてコミュニケートし、雲の上を飛び、病を治し、宇宙のしくみを解
    明してきた。ところがそれと同じ発明が最新鋭の殺戮マシンをとめどもなく生んでいく。これが
    現代の戦争が付きつける真理であり、広島が突きつける真理だ。管理が不在のまま技術が進化す
    る先には人類滅亡しかない。原子核分裂を生んだ科学革命には、それ相応のモラル革命が不可欠
    なのである。

    われわれはだからここに来る。どんなに辛くてもこの街の中心に立って、あの爆弾が落ちてきた
    瞬間のことを全身全霊を傾けて想像してみなければならない。目の前の光景に茫然と立ちすくむ
    子どもたちが味わった恐怖を。無言の叫びと泣き声を。あの無残な戦争とその前に起こった過去
    累々の戦争、それに続く戦争で亡くなったすべての罪なき人々の無念を。

    その苦しみはとても言葉で言い表せるようなものではない。だけど現実から目を背けず歴史を直
    視し、同じ苦しみを繰り返さないため何ができるのかを自らに問う共通の責任がわれわれにはあ
    る。やがていつかはヒバクシャの証言が肉声で聞けなくなる日がくるだろう。だとしてもあの19
    45年8月6日の朝の記憶は永久に風化させてはならない。あの記憶はわれわれに現状を打破する力
    を与え、モラルの想像力の殻を破る力、変わる力を与えてくれるからだ。

    あの運命の日以来われわれは、希望を紡ぐ選択をひとつひとつ積み重ねてきた。アメリカと日本
    は同盟関係のみならず友情を育み、戦争で得られるどんな戦果よりも遥かに大きなものを国民に
    もたらしてきた。欧州諸国はひとつの連合となり、戦場に代わって商業と民主主義の固い絆で結
    ばれている。列強に抑圧されていた人々と国々は独立解放を勝ち取った。国際社会では反戦と核
    兵器の規制・縮小・廃絶を目指す組織と条約が整備された。

    ところが一方、今も世界の各地では国同士がいがみ合い、テロ、汚職、残虐行為、抑圧が続いて
    いる。それを見るたびにまだやるべきことは終わっていないと痛感する。悪をなす人間の能力ま
    では制限しようがないから、国や同盟の自衛手段の確保はどうしても必要だが、我が国をはじめ
    核保有国は恐怖のロジックを脱し、核のない世界の実現を目指す勇気を持たなければならないと
    思う。

    自分が生きている間に実現はできなくとも、粘り強く働きかけていけば滅亡の可能性は減らせる。
    核廃棄路線に道筋をつけることもできるし、核保有国の増加傾向に歯止めをかけ、危険思想の持
    ち主から大量殺戮兵器の原料を遠ざけておくこともできるはずだ。

    まだやるべきことはほかにもある。いま世界を見回すと、粗末なライフルや樽爆弾でもかなり大
    きなスケールの破壊行為ができるという現実があり、従来の戦争と同じに考えていたのではまる
    で立ちゆかなくなっている。いま必要なのは外交で紛争を未然に防ぎ、始まってしまった紛争は
    収束を目指すことであり、相互依存の拡大を強調し、武力対立しても何の得にもならない、それ
    よりは平和的協調を育む方が得策だと働きかけることであり、国家の本質は破壊する力ではなく
    創造する力にあるという意識の転換を図ること。そして何よりも、同じ人類の仲間として互いの
    つながりを見直すことなのではないだろうか。

    人類は自滅の道具を手にした特異な種だが、反面、これもまた人類を人類たらしめる特異な資質
    なのである。われわれ人類には過去の過ちを繰り返す遺伝子の呪縛なんてものはない。われわれ
    は学べる。選べる。子どもにまったく別のストーリーを語り伝えることができる。人はみな同じ
    人類の仲間だと教え、戦争を減らし、残虐行為をそう容易には受け入れない社会にしていけるの
    だ。

    ヒバクシャの実話はまさにそんな貴重なストーリーであり多くのことを教えてくれる。ある女性
    は原爆を投下した飛行機のパイロットを憎むのをやめ、許した。自分が本当に憎んでいたのは戦
    争それ自体だったのだと悟って。ここで亡くなったアメリカ人の遺族を探し求めた男性もいる。
    家族を失う悲しみは自分もその遺族も変わりないからといって。

    わが国の建国のストーリーはとても単純で、「人はすべて平等に生まれ、創造主なる神に命、自
    由、幸福の希求という侵すべからざる権利を授かっている」というものだった。これは言葉で言
    うのは単純だが、実現するとなると簡単ではない。同じ国境の中の、同じ国民の間ですら苦労し
    ているぐらいだ。ただこのストーリーには、その言葉に忠実に生きてみるだけの価値はある。海
    を越え、陸を越え、万人が追求すべき、ひとつの理想なのではないかと思う。人にはそれぞれ値
    引きできない価値があり、ひとつひとつが大切な命であり、人類はみなひとつの家族だという発
    想。これはラディカルなようだが今本当に求められている価値観であり、これこそがわれわれみ
    んなで語り継いでいかなければならないストーリーだ。

    だからわれわれは広島に来る。ここに立って自分の愛する人たちのことを思い、その思いを重ね
    るために。朝一番に見る子どもの笑顔、台所のテーブル越しに握る妻や夫の手のやさしさ、抱き
    しめてくれる親の温もり――そんな誰にでもあるかけがえのない瞬間。それと同じかけがえのな
    い瞬間がここにもあったのだ、71年前に。

    ここで亡くなったみなさんもわれわれも何ひとつ変わるところはない。一般の庶民にはそれが実
    感としてわかると思う。誰も戦争なんか望んでいないのだ。文明の利器を使うならライフを絶つ
    のではなく改善する方に使え、そう思っている。国が何かの選択に迫られたとき、国家元首が選
    択に迫られたとき、必ずこの単純な教えに立ち返る。そうすれば広島の教訓は生かされていく。

    ここ広島で世界は永久に変わってしまった。だが今は子どもたちがこの街で平和に1日1日を生き
    ている。こんなに得がたいことがあるだろうか。このかけがえのないものを守り、すべての子ど
    もたちに広めていきたい。それがわれわれの選ぶべき未来だ。広島と長崎が「核戦争時代の夜明
    け」として歴史に刻まれる未来なんか要らない。「モラルの目覚めの朝」として歴史に刻まれる
    未来をともに選んでいきたいと、そう切に願う。

    【核なき世界 模索の8年/オバマ大統領】(朝日新聞)





























・ 五大友厚 (16.02)     NHKの朝の連続ドラマ「朝が来た」で五大友厚役をディーン・フジオカが演じてから五大     友厚が俄然注目されだした。 (写真はNHKドラマと商工会議所の銅像)            五大については47年程も前に学生時代のアルバイト先であった大阪商工会議所でその銅像に     面会して知っていた。     当時大阪商工会議所は堂島にあって、僕はそこで鬱屈したアルバイトをしながら青春を送っ     ていたものだ。当時は中庭のようなところに鎮座していて、興味もなく時折眺める程度なも     のであった。     1968年頃に商工会議所が本町に移転したが銅像も移築され、今は他の2人(7代会頭の土居     通夫、10代会頭の稲畑勝太郎)と共に商工会議所に鎮座している。商工会議所も堂島の時     とは見違えるほどの近代的なビルに生まれ変わった。もう長い間訪れていないので今はどう     なっているかは判らない。当時は大阪も活気のある商都であったが、多くの企業が東京へ本     社を移し大阪の衰退が言われてから久しい。     NHKドラマの反響が大きいことから、商工会議所は五代のWebサイトを作った。     このサイトに五代について詳しく載っている。     大阪の恩人五代友厚 ........................................................................................... → 同じ頁の最初へ戻る → 最初の頁へ戻る ・ 花燃ゆ・杉 文 (15.01)     2015年(平成27年)のNHK大河ドラマは「花燃ゆ」で吉田松陰の妹の杉 文(ふみ)を中心とし た物語である。文は安政4年(1857年)15歳の時、18歳の久坂玄瑞に嫁いだものの7年後1864年 (元治元年)夫の玄瑞が蛤御門の変で傷つき自刃して25歳で亡くなり、文は22歳の若さで未亡 人となり、その後楫取素彦(小田村伊之助)の後妻に入って夫の任地である前橋に一時住む。            写真は左から久坂玄瑞(くさかげんずい)、楫取美和子(旧姓久坂文)、楫取素彦(小田村伊之助)        久坂玄瑞は松下村塾で高杉晋作と並び称される人物であり、後に25歳で蛤門の変で自刃して    いる。楫取素彦に文の姉の寿子が嫁いでいたが、寿子が没したあと楫取の後妻に入っている    (明治16年、41歳)。だから楫取は松陰の妹2人を妻にしたことになる。明治14年から17年    まで文は前橋で過ごした。文は玄瑞の死後若くして未亡人となっていたが、母の滝の強い勧    めで一旦杉姓に戻り名前を美和子として楫取素彦に嫁いだ。    久坂玄瑞は師である松陰の死後、長州の尊王攘夷運動の先導者となった。玄瑞が備中松山藩    に山田方谷を訪ねた折、方谷の洋式近代兵器で武装した農兵「里正隊」を視察して感銘を受    け、長州に帰って高杉晋作にこれを伝えて「奇兵隊」が誕生することになる。また玄瑞は安    政の大獄で刑死した吉田松陰の遺骸の下げ渡しの仲立ちを山田方谷等に働きかけいる。    久坂玄瑞は25歳の若さで亡くなったが、松陰の思想を受け継ぎ坂本竜馬等の志士達に多大の    影響を及ぼしている。西郷隆盛をして久坂玄瑞について「今、俺が少しばかりの手柄があっ    たからといって皆にチヤホヤされるのは、額に汗が出るような気がする。もし藤田東湖先生    や、久坂玄瑞、その他の諸先輩が生きておられたなら、とうてい、その末席にも出られたも    のではない。それを、ああいう先輩方が早く死なれたために、俺のような者が偉そうに言わ    れるのは、恥ずかしゅうてならぬ」(頭山満「大西郷遺訓」)と言わしめた程である。。           楫取素彦は明治になって群馬県初代知事になり、84歳に没している。文(美和子)は大正10年    78歳で没している。           前列中央が楫取素彦、その右隣が楫取美和子(文)    このように「花燃ゆ」の久坂玄瑞とも山田方谷は縁がある。大勢の方に山田方谷の大河ドラマ    化では署名活動を依頼し、その数は60万を超える署名を頂いた。なんとかその実現を期したい    ものである。    写真はいづれもWikipediaなどから借用している。netで文の写真を探しても若い時のものはな    かなか見つからない。出て来るのはNHKドラマの井上真央の写真ばかりである・・・。 ........................................................................................... → 同じ頁の最初へ戻る → 最初の頁へ戻る ・ 安岡正篤(まさひろ) (14.07)     14.07月に武蔵嵐山の菅谷館跡に山百合を見に「歩こう会」の仲間と行った。実はそれまで    安岡正篤の名前すら知らなかった。菅谷館跡を巡るためにGoogleマップを調べている内、その    敷地に隣接して「金鶏神社」なるものを見つけた。珍しい神社だと思いつつ調べていくと、こ    の神社こそ安岡正篤を祀る神社である事が分かった。         「安岡正篤 Books」サイトでは安岡をこう紹介している。    不朽の人間学によって社会を啓発し、昭和を指導した安岡正篤。 安岡正篤は、孔子・孟子や 老子・荘子ほか東洋先哲の教訓に潜む普遍の真理を国家の歴史と指導者像を介して現代に敷衍 し、人の道そして国家と指導者のあり方を論じた。    「一燈照隅・万燈照国」と説く安岡教学の真髄は、単なる経世済民の学に終わらず、 自ら在    郷指導者の養成に励むとともに世直しを求めて指導者の啓蒙につとめる、実践活学にある。    安岡正篤が論じるテーマは、陽明学に代表される東洋の思想、西洋哲学、国家治乱興亡の歴    史、英雄・先覚者の人間像、科学と産業、教育と道徳、人生と家庭、経営と行政、文学と芸術    自然と環境など、実に多領域にわたります。その凝縮したものが人の道と指導者のあり方に関    する教えであり、安岡人間学(人物学)といわれるゆえんです。とりわけ歴史の故事に真理を    諮り、国家・社会の指導者について筆法鋭く諭す指導者学は人々に多くの共感と感動を与えて    いる。         安岡についてWikipedia等を参考にすればこう纏められる。    安岡正篤は大正、昭和の陽明学者・思想家。 明治31年(1898)-昭和58年(1983)    安岡は大正11年頃盛んだった西欧の影響を受けた大正デモクラシーに対抗して、王陽明の陽明    学に根幹をなす東洋思想、日本主義を説き一部の華族、軍人の共感を得る。大正15年に私塾で    ある金鶏学院(右翼団体、愛国団体とされている)を開き、軍人、華族、官僚に教化活動を行    った。更に埼玉に日本農士学校を開校して論語による農本教育をおこなった。ここから斎藤実    岡田啓介、吉田茂(首相の吉田茂とは別人で厚生相、軍需相を務めた)、広田弘毅等が出て注    目された。また2.26事件の首謀者西田税にも影響を与えた。更に山本五十六、八代六郎、蒋介    石等とも親交があったという大思想家である。    終戦後は、GHQによりこれらの団体は解散させられ公職追放された。自民党の中では吉田茂    池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳等が安岡を師と仰いだほか、財界でも三菱、住友、    近鉄グループや東京電力などの財界人がその思想に共鳴している。戦後日本の最有力の黒幕の    一人と言われている。         山田方谷の項でも書いたが、我が郷土の英雄である備中松山藩の山田方谷も陽明学者である。    方谷は王陽明の儒学、陽明学とともに朱子学も学びその利点・欠点もよく理解し、「陽明学の    利点は、我が心が得心しているのかを問うて人間性の本質に迫ることができ、道理を正しく判    別でき、事業においては成果を出すことができる。しかし、私欲にかられた心で行為に走ると    道理の判断を誤ることが多いという欠点があった。よって、先人達の教訓や古典から真摯に学    び、努力することが求められる。」と弟子には陽明学を勧めず、むしろ朱子学を教えた。     一方、安岡正篤は大正・昭和の思想的指導者であったが、方谷が見抜いた陽明学の欠点を顧    みず政治家、軍人、財界人にこれを教え込み、それらの黒幕的存在であったため戦後にGHQ    から糾弾されて同上学校などは解散させられた。だが当時では国粋的発想は普通であり、当時    の大新聞はこぞって戦争を煽る記事を書いている。あのポツダム宣言でさえも”笑止”などの    表現で書いており、これを真面目に検討して受諾していれば広島、長崎などの惨事は免れてい    たはずである。下に書いた大妻コタカさえもGHQから公職追放されている。現代でも彼の思    想の信奉者は多い。     安岡正篤氏は退廃する日本を憂え、そして人のあり方を説く。    「人間教育もとんだ間違いをしていて、学校に預けさえすればいいと思っている。だが、やは    り根本は家庭教育であり、その家庭教育の基本は愛と敬である。愛ばかり強調されることが多    いが、実際は愛だけでは育たない。人間の人間たる所以は愛と同時に敬というものの存在であ    る。敬という心によって、人は初めて進歩向上するのである。そして人間は恥を知らなくては    いけない。」     昭和の黒幕と言われようが、現代の日本人に欠けた事を的確に指摘している。彼の思想をよ    り知りたいなら「運命を創る プレジデント社 (1985/11)→活眼活学 PHP研究所 (2007/5/)    →経世瑣言 致知出版社」等を読むといい。     この「人間は恥を知らなくてはいけない」と同じ言葉が、この菅谷館跡に隣接する大妻嵐山    高の校庭にある同校創設者である大妻コタカさんの銅像に同校の校訓の「恥を知れ」と刻まれ    ている。尤もこれは人に対してのものではなく、自己に対する言葉であるそうだ。    人前で子供の様に泣き叫ぶ政治家や、電車の中で化粧をして平然としている女性、そのたもう    「恥を知らない」者があちらこちらに溢れているが、やはり戦後人間教育(家庭教育も含めて)    はどうもおかしい。         安岡の孫である安岡定子(本名:溝本定子)は、大妻高校などの道徳の時間に論語を今でも    教えている。余談だが、安岡正篤は占術で知られる細木数子が銀座のママをしていた時に知り    合い、安岡85歳、細木45歳であったが結婚誓約書を書き、細木がそれをもとに婚姻届けを提出    する騒動を起こした。安岡の親族が婚姻の無効を主張して籍は抜かれて事無きを得た。安岡は    その年1983年12月に死去した。安岡はこの日本農士学校のあった地の金鶏神社に祭られている。     安岡正篤         山田方谷       安岡定子(本名:溝本定子)       ........................................................................................... → 同じ頁の最初へ戻る → 最初の頁へ戻る



・ 志木の地名  (13.05)

   志木に住んで30年になる。地名などどうでもいいと思っているし、「志木」なんて妙な軽い
   名前だなあと思いつついつも住所を書いていたし、今も書いている。

       
    (Google-mapから引用した航空写真、新河岸川と柳瀬川の合流地点)

   2011年11月10日の朝日新聞に志木の地名の由来が載っていた。
   この辺りはかっては引又(ひきまた)という地名だったが今はその片鱗もない。「引又」とは
   「曳跨」のことで、江戸との交通の便であった新河岸川の船を上流に引き上げるとき、柳瀬川
   と合流するところを跨いで引き上げたからからだとの説があるそうだ。

   また、新河岸川と柳瀬川の合流地点が、蟇蛙が這いつくばった形に似ているところからきてい
   るとの説もある。蟇俣(俣は道や川や物事の分かれ目)と記された庚申塔があり、蟇俣→蟇股
   →引又となったとするものである。
   
   上の写真でみると、右が川越方面から流れ来る新河岸川で、左が所沢から流入する柳瀬川であ
   り、よくよく眺めると上の二説も一理あるかなと思えなくもない。

   ...................................................................................

   1874年(明治7年)に引又村と館村が合併することになり、互いに自分の元々の名前にすること
   に固執し決着が着かなかった。そこで古来からあった「志木郷」という名前から「志木宿」に
   する事で合意した。その「志木郷」の志木は、「志楽木(しらぎ)」で朝鮮の「新羅(しらぎ)」
      から転じたらしい。ただしその「志木郷」は引又村と館村近辺ではなくて現在の和光市白子付
      近の事だったのであるから、「志木」の地名もいい加減なものである。

   現在の和光市、朝霞市、新座市と志木市の宗岡を除く地区及び東京の練馬区、西東京市の一部
   はかって「新座群(にいくらぐん)」が在った場所である。758年(宝字2年)に帰化した新羅
   人を武蔵国のこの地に大和朝廷が移入したのが始まりとされている。また日本書紀には更にそ
   れより前の687年(持統元年)、690年(持統4年)にも新羅人を移入したと書かれている。

   だから地名も「新羅群」→「新座群」→「志羅木・志楽木・志楽・志木・新倉」と表記された
   ようである。いづれにしても新羅人が帰化移入して住み着いた地域である。

   1999〜2006年に行われた「平成の大合併」の際、和光・朝霞・新座・志木の四市を合併しよう
   という事になったが、和光市は大企業が事務所や工場を構えていて、法人税や事業所税が潤沢
   なことから、それらに乏しい他の三市との合併を望まず合併は見送られた。もし合併されてい
   たなら、人口44万の中規模都市となって公共設備も充実したものとなった事だろう。現在の規
   模(和光8万、朝霞13万、新座16万、志木7万)では市役所にしろ、図書館、警察や市民会館等
   が中途半端でまことに良くない。どだいこんな狭い地域に4人の市長や大勢の議員がいる必要
   は無い。名前は天平の昔の地名から「新座市または新倉市」とするのが良かったのだろうと思
   っている。
   

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・ 松永安左エ門  (12.01)
   松永安左エ門の柳瀬山荘が近所にあるので、また福島原発事故のこともあり、電力の鬼と呼ば
   れた松永翁についてにわかに好奇心が湧いてきた。
      早くから超電力による60サイクルの全国電力網の整備や、電柱の地下化を主張していたり、原発
      の導入には慎重であったなど先見の明があった。
   

       
       
   眼光炯々として口を固く結んだこの老人が晩年の松永安左エ門である。
   長崎県壱岐に明治8年生まれの明治人である。壱岐の松永記念館には昭和47年の逝去10年前に
   書いた痛快な遺書が展示されている。

   『一つ、死後の計らいの事
     何度も申し置く通り、死後一切の葬儀・法要はうずくの出るほど嫌いに是れあり。
     墓碑一切、法要一切が不要。線香類も嫌い。死んで勲章位階(もとより誰もくれまいが友
     人の政治家が勘違いで尽力する不心得、かたく禁物)これはヘドが出る程嫌いに候。
     財産はセガレおよび遺族に一切くれてはいかぬ。彼らがダラクするだけです。(衣類など
     カタミは親類と懇意の人に分けるべし、ステッキ類もしかり)
     小田原邸宅、家、美術品、及び必要什器類は一切記念館に寄付する。これは何度も言った。
     つまらぬものは僕と懇意の者や小田原従業者らに分かち与うべし。
     借金はないはずだ。戒名も要らぬ。

     以上、昭和三十六年 十二月八日
       横山通夫様
       松永安太郎様
       田中精一様
       井上五郎様
       木川田一隆様
     この大詰めは、池田勇人氏にお願いする。
                       以上』
    流石、明治の気骨人である。


   新座市のHPは松永安左エ門について以下のように書いている。

   『「電力の王」とよばれた日本を代表する電力業経営者です。
    松永安左エ門氏は、明治8年長崎県壱岐に生まれ、慶應義塾大学に学び、福沢諭吉・桃介親
    子の薫陶を受け実業界に進みました。日本銀行行員、東洋製革社長、石炭商を経て、福岡
    電気軌道の設立に加わり、九州電気取締役、大正10年には関西電気副社長に就任するなど、
    電気事業経営に着手しました。その後、東邦電力などのトップマネジメントとして、新機
    軸をつぎつぎと打ち出し、東北電気、新潟電力などの社長にも就任し、「電力王」と称され
    るようになりました。東京に進出してからは、東京電力を設立するなど「科学的経営者」と
    の高い評価を得ています。
    戦後昭和24年から25年に電気事業再編成審議会の会長として、主導の役割を果たし、電力会
    社の民営化を周囲の抵抗にあいながらも実現するなど、現在の民営9電力体制の生みの親と
    なりました。
    また、新座市にありますサンケン電気株式会社の前身である東邦産業研究所の創始者でもあ
    ります。
    昭和4年、55歳のとき、所沢柳瀬村の広大な敷地に柳瀬山荘を築き、その一角に、原三渓か
    ら川村瑞賢遺構の茶室「春草盧(しゅんそろ)」を譲り受けて移築し、以後、昭和の大茶人
    としても知られました。
    耳庵の名は『論語』の「五十にして天命を知り、六十にして耳に従う」からつけたもので、
    茶の湯に目覚めた耳庵は既に61歳でした。
    最後の数奇茶人松永耳庵は、昭和46年6月16日神奈川県小田原市板橋で永眠、97歳の
    生涯を閉じました。
    自らが傾倒する石室善玖(せきしつぜんきゅう)の開山である平林寺に葬られましたが、遺
    志により葬儀・法要は一切執り行われず、法号もありませんでした。』

    平林寺の墓石には
    耳庵居士 松永安左エ門 1875年12月1日性 1971年6月16日死
    とだけ書かれていて、質素なものである。これなら遺書に違わないであろう。
    尚、慶応志木高の土地も1947年に松永安左エ門が寄贈したものである。


    下記サイトに更に詳しい説明がある。
        電力に生涯を捧げた男松永安左エ門(国際サバイバル道場)




     川越街道が国道463号線(通称浦所街道)と交わる英ICから所沢方面に300mほど行った所に
     東京国立博物館の柳瀬荘の入り口がある。
     左手の長屋門は閉ざされたままであるが、毎週木曜日に公開されるので、この左手から急な
     坂を登っていくことになる。 
       
     



     坂を150mほど登り詰めると門があり、黄林閣(おうりんかく)が建っている。

     



     安左エ門が東久留米にあった建物を譲り受けて移築し、別荘としていたものだ。
     天保15年(1844)に立てられた茅葺屋根の建物で、昭和53年に重要文化財に指定されてい
     る。現在も人が居住して管理されている。
     




     黄林閣の入り口に「耳庵(じあん)」(松永安左エ門)の写真とその説明があるが、茶人
     耳庵は、最初の鬼の形相とは異なりまことに穏やかなものである。

     




     黄林閣の内部

     


     



     斜月亭

     


     久木庵

     


     斜月亭から黄林閣を望む

     
        

    <終わり>

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・ 新選組・谷三兄弟  (11.12)

   備中松山生まれの私が、新選組隊士に松山藩士が居る事を知ったのはそう昔の事ではない。い
   くら不勉強な僕でもあの新選組だから多少は知っていても良いと思うのだが、明治新政府の意
   向で、薩長を中心とする史観からは無視又は抹消されたも同然の扱いとなっているのだろう。

   谷三十郎、谷万太郎、谷昌武(近藤周平)三兄弟の他、14名の備中松山藩士が新選組に入隊し
   ている。尤も入隊したのは慶応4年(1868)1月3日鳥羽伏見の戦で幕府軍が敗戦となって、老中
   で備中松山藩主でもある板倉勝静等は榎本武揚等と函館に向けて最後の望みをかけて向かうが、
   それに備中松山藩士14名が新選組に入隊して随行したのである。他に桑名藩士、唐津藩士も加
   わっている。(高梁歴史人物事典より)
   備中松山藩士14名の内、戦死が確認されているのは1名で、大半は函館の弁天台場で藩主勝静
   の降伏に習って降伏し、事後放免されている。尚、五稜郭はこの弁天台場降伏の後、総攻撃を
   受け幕府軍は事実上瓦解した。

     
     谷三十郎(SPYSEEさんHPより借用したが、三十郎だという確証は無い)
   
   谷三十郎は谷三兄弟の長兄で、新選組副長助勤(局長、副長に次ぐ三番目の位)だったが、後
   に七番組長に格下げとなる。直心流剣術の師範で池田屋事件、大阪のぜんざいや襲撃事件で手
   柄を立てる。



     
     谷万太郎(SPYSEEさんHPより)

   谷万太郎は三兄弟の真ん中で、種田流槍術の名手であった。新選組隊士の田内知が女性問題の
   不祥事を起こし切腹させられた時に介錯をしたが、その介錯が上手く行かず修羅場になったと
   子母沢寛の「新選組物語」に出ているが、これは全くの子母沢の捏造で、万太郎は慶応2年4月
   に病死していて、田内が切腹させられたのは慶応3年1月だから辻褄が合わないと「新選組・敗
   者の歴史はどう歪められたのか」(大野敏明・実業之日本社)は論じている。




   谷昌武は一時近藤勇の養子となって近藤周平と名乗っていたが、兄二人が死んで一人だけ隊に
   残り、慶応4年(1868)「鳥羽伏見の戦い」で敗走し後江戸に行き、その後隊を脱走して高梁
   に一時帰る。また直ぐに大阪へ出て、明治5年に大阪府の巡査となった。後に山陽電鉄に入社
   し、明治34年に53歳で没している。


     
     近藤勇

   近藤勇は武家の出では無いことに、本人も周りも最後までこだわった。武家の出である谷昌武
   を養子として近藤周平と名乗らせたのもその一つであり、最後に流山で斬首されたのも武士と
   して認められなかった事の現れであろう。
   近藤の斬首を実行させたのは、土佐藩の谷干城である。谷は近江屋で坂本龍馬、中岡慎太郎を
   暗殺したのは新選組との確信を持っており(新選組ではないとする説が有力だが)、新選組に
   対して厳しく対処している。尚、谷干城(たにたてき)は後に西南戦争で熊本城を死守した軍人
   であるが、第二代学習院院長も務めた人物でもある。

     
     谷家の墓

   谷三兄弟の墓は大阪市北区兎我野町本伝寺にある。この辺りは大阪の北の大繁華街で近くには
   飲み屋やラブホテルが立ち並ぶところである。備中松山(高梁)の谷家の墓は、高梁市向町安
   正寺の墓地にある。

   谷家は突然お家断絶となって、大阪南堀で剣術道場を開くのだが、その経緯はこうである。安
   政3年(1856)御暇(おいとま)」の咎を受けたのは、藩主板倉勝静の世話女中を三十郎が見初め
   子を産ませた事が勝静の知るところとなったからである。「小説山田方谷の夢」(野島透/明徳
   出版社)ではその子が谷昌武(近藤周平)であり、谷山兄弟の末弟は長兄三十郎の子供だったと
   している。この説は多少無理があろう。やはり谷三兄弟は谷三治郎の子供で、三治郎は120石、
   役料20石取りの旗奉行で剣の達人でもあった。三治郎は昌武が6歳の時死亡しており、昌武は16
   歳も年上の三十郎を父親代わりに育っている。
   ともかく御暇の咎を受け、大阪に出ていた三十朗、万太郎を頼って大阪に出て行き新撰組に兄弟
   揃って入る事になる。昌武が新撰組に入ったのは15歳の時であった。その後昌武は高梁の地を踏
   んだが三十朗、万太郎は高梁に帰る事は無かった。

   <山田方谷マニアックス、新撰組敗者の歴史はどうゆがめられたか(大野敏明)、小説山田方谷
    の夢(野島透)、Wikipedia等を参照させて頂いた。尚、野島透氏は山田方谷六代目の直系子
    孫である。>

    <終わり>

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・上杉鷹山  (11.02)
     


   『なせばなる なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり』

   藤沢周平の遺作となった「漆の実のみのる国」は、上杉鷹山を藩改革を題材とした小説である。
   物語りは完結しているとは言い難く、中途半端な結末となっている。しかし、後世に鷹山が手掛
   けた藩改革は成功し、上杉斉定の時代(1823年)に上杉藩は借財の完済を成し遂げた。

   上杉鷹山(治憲) 寛延4年(1751年)〜文政5年(1823年)は米国大統領のクリントンが尊敬した人
   物とされていて、米沢にそれを記念した碑が建てられている。(ケネディも尊敬したらしい)

   上杉と言えば、その祖は謙信である。謙信はかって長尾景虎と称していたが、天文21年(1552年)
   関東管領・上杉憲政が北条氏康に領国の上野国を攻められ、居城の平井城を棄て、景虎を頼り越
   後国へ逃亡してきたのを助け、後に鎌倉府において永禄4年(1561年)山内上杉家の家督と関東管
   領職を相続、名を上杉政虎(後に謙信と名乗る)と改めた。
   平井城は「上泉伊勢守にまつわる歴史とゴルフ場のお話」に掲載
   
   その謙信の二代目上杉景勝は、慶長3年(1723年)秀吉から会津120万石へ移封されたが、秀吉の
   死後、徳川家康によって米沢30万石へ減封された。上杉家は18世紀中頃には借財が20万両に累積
   する一方、石高が15万石(実高は約30万石)でありながら初代藩主・景勝の意向で、会津120万
   石時代の家臣団6,000人を召し放つことをほぼせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離
   れなかった。このため他藩とは比較にならない程人口に占める家臣の割合が高かったため、藩財
   政に深刻な負担を与えていた。

   上杉綱憲は元禄15年(1703年)に起こった元禄赤穂事件で著名な吉良上野介の実子であるが、当時
   既に多大の借金に苦しんでいた上杉家は、吉良上野介の無心で更に借財を重ね、藩財政は一層の
   窮地に追い込まれたとの説もある。

   その藩財政に苦しむ上杉家に藩主重定の養嗣子となったのが、日向高鍋藩秋月種美の次男の治憲
   であった。藩主重定を継いで明和4年(1767年)に米沢藩主となった治憲は、竹俣当綱(たけのま
   たまさつな)や莅戸善政(のぞきよしまさ)等と反省改革を大胆に進めた。江戸米沢藩の生活費
   を従来の1,500両から209両へ減じ、奥女中を50人から9人に減らしたり、質素な着物を着たり、一
   汁一菜の食事とするなど徹底した支出の切り詰めを行う一方、農地開梱や漆、桑、楮百万本の植
   栽による収入の増加を図った。
   鷹山の施策の主なものは、人員整理、質素倹約の生活等による支出の切り詰め、新田開発や漆・
   桑・楮を利用した殖産、実用に役立つ学問の普及と人材育成等である。

   しかしながら、30万石に対しての6,000人もの家臣団は養えるものではなく、かつかっての大大名
   時代の仕来りや格式を重んじる家風は容易には改革出来なかったうえ、度重なる天災や気候不順
   による凶作等に見舞われ一向に借財は減じなかった。
   
   丁度現在の日本の国家財政状況に似ていて、収入を上回る支出を長年に渡って続けていかざるを
   得なかったのである。日本も長年の自民党時代に積み上げてしまった世界で突出した財政赤字国
   であり、財政再建の必要性は判っていても、選挙対策と景気対策のために増税も実施できずにズ
   ルズルと赤字国債を発行し続けてしまった。民主党政権になってもこれは一朝には止められず、
   収入以上の財政支出の予算となっている。

   竹俣当綱や莅戸善政は一度失脚するが、治憲は家督を重定の実子治広に譲った後も改革を継続し
   有能な莅戸善政を再度改革の主導者とする事で、改革を始めて半世紀以上を経過して、文政5年
      (1823年)にしてやっと改革が実を結んだのである。

   日本の財政赤字は、個人金融資産が1,400兆円あるから、国家破綻したロシアやアルゼンチン等
   のようにはならないという説もある。しかし現在の政治の状態では民社にしろ自民にしろ選挙対
   策と景気対策の面から財政健全化は望めず、プライマリバランスが達成されたにしても長期金利
   の上昇は避ける方法がなく、国債の新規発行の消化はおろか、既発国債の利払いも困難となり、
   少子高齢化や社会福祉費用の増大から更なる財政出の増大を招き、政府の債務不履行を招く恐れ
   は大きい。こうなると日本に対する信用不安が拡大して、円安、株の暴落、インフレを惹起して
   大パニックになるかもしれない。子や孫の世代が途端の苦しみを負う事になるであろう。一刻も
   早い「鷹山」の出現が望まれる所以である。

    
   生物学者のハーディン(G.Hardin)の言う「共有地の悲劇」が財政破綻で起きているのである。
   つまり、財政支出は最終的には国民の負担であるが、給付と負担の関係が見えにくいため、「負
   担することなく、給付を得られる」共有地とみなされる。このため、人々は自分の利益を最大化
   しようと、財政支出に対する働きかけ、結果として過剰な支出が行われる事になる。この状態を
   政府自民党はここ10数年継続して来て天文学的財政赤字を累積して来たわけだ。「共有地の悲劇」
   を起こしてきたのである。無論、自己の負担をしないで給付のみを追求してきた選挙民が、この
   政策を行う政党を支持し続けてきた事が悪かったことは言うまでもない。それと引換に政権を維
   持し政治権益を欲しいままにした政党はもっと悪い。

   財政改革を成し遂げた人物は鷹山の他にも居る。備中松山藩の「山田方谷」である。これについ
   てはこちらを参照願いたい。 山田方谷 


   <追補:鷹山を生んだ秋月家>

   2011年2月26日にテレビで放映されたTVドラマ「遺恨有り」(藤原竜也主演)は、吉村昭「最後の
   仇討」を原作としたドラマであったが、1880年(明治12年)12月17日に実際に起きた「日本最後の
   仇討事件」とされる「臼井六郎仇討事件」を描いたものである。1869年(慶応4年)に秋月藩で両
   親を惨殺された臼井六郎が明治に入って仇討ちを成し遂げる物語である。豊前・筑前・筑後の有
   力な大名であった秋月家は16代の種実の時に、秀吉の九州征伐に敗れ日向高鍋に移封された。

   関ヶ原の戦功によって黒田長政が筑前を治めるようになり、長政の三男黒田長興を秋月藩主とし
   て黒田藩の支藩とした。一方、日向に移封された秋月家は明治まで高鍋藩を維持した。6代藩主
   種美の次男の治憲は上杉家に入り、後に鷹山と称して上杉家の窮迫する財政を救った。

   また、秋月藩8代の長舒(ながのぶ)は高鍋藩秋月家から黒田藩の支藩である秋月藩に養子に入っ
   た人物で、上杉鷹山の甥である。(父が秋月種茂で鷹山の兄)。長舒も鷹山同様に学問、文化や
   産業を保護し、秋月の木蝋や川茸などの特産品を作り藩財政の改革を行っており、叔父鷹山と同
   様の能力を発揮している。

   秋月藩では幕末に藩を二分する勤皇、佐幕の諍いが起こり、「臼井六郎仇討事件」の元となった
   執政の臼井亘理が暗殺された。また、1876年(明治8年)秋に秋月士族250余人が反政府の挙兵をし
   て「秋月の乱」を起こしたが乃木希典率いる政府軍によって鎮圧された。その後秋月を多くの士
   族や商人も”秋月千軒の賑わい”といわれた秋月を離れて人口も半減してしまった。現在は福岡
   県朝倉市秋月は秋月城址の残る小さな城下町となっている。
     

   
    <終わり>

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・龍馬の新婚旅行  (10.09)

    慶応2年1月(1866年3月)京都伏見の寺田屋で負傷した龍馬は、西郷隆盛、小松帯刀,大久保
   利通等の帰郷に同行して、妻のお龍(りょう)を伴って薩摩を訪れた。一行は慶応2年3月大坂か
   ら蒸気船に乗り込み、長崎を経て3月10日に鹿児島に到着している。傷の療養も兼ねたこの旅
   行が「日本初の新婚旅行」といわれている。

    龍馬らは鹿児島から船で霧島を訪れて観光している。高千穂にも登っていて、前日霧島の硫
   黄谷温泉に宿泊している。そのゆかりの霧島ホテルには龍馬とお龍に関する様々な展示がある。
   昨年この温泉に宿泊したので、写真等取り出しながら「龍馬の新婚旅行」を書いてみる。

    福岡の方から南下してきた九州道がえびのJNCで二手に分かれ、西に向かうと鹿児島で東に
   向かうのが宮崎に向かう宮崎道となる。東国原宮崎県知事が嘆くように、宮崎には高速道はま
   だ貫通していなく至って交通不便な所である。


    その宮崎道を小林ICで降りて霧島スカイラインに乗って霧島山をめがけてどんどん登って行
   き、登り切った辺りで鹿児島県に入るが、今度は深い渓谷をつづら折りに少し降りた辺りに霧
   島温泉郷がある。ここに硫黄谷温泉がある。龍馬が傷の温泉治療をしたのはこの硫黄谷から国
   道223号線を鹿児島空港に向けて15kmほど走ったところにある塩浸(しおびたし)温泉であった。
    この硫黄谷温泉には霧島山登山前と後に宿泊している。

    


    龍馬の旅行の地図である。
    
    (霧島ホテルHPより)


    この温泉は湯が猛烈な勢いで自噴している。
   


    このホテルの展示物で特に目を引いたのが、達筆で書かれた司馬遼太郎の書であり、短文によ
   く龍馬像が描かれているので以下にその全文を掲載する。(同ホテルに掲げてある)


   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     坂本龍馬の奇跡               司馬遼太郎

     龍馬は、維新史の奇跡であるといわれる。

     維新という革命に、尊皇攘夷の思想をもって徳川幕府を倒し
    日本の潜在的主権であった天皇家を興してこの国に近代的統一
    をもたらしたものだが、龍馬はその志士のなかに立ちまじりな
    がら海運業をおこし、株式会社の構想を考え、同時に上院・下
    院による議会制度を献策し、ほとんど共和制にちかい政体をま
    で考えた。こういう先進思想が、幕末の一介の剣客の脳裡にう
    かんだという点が、奇跡といわれるひとつであろう。

     龍馬の語目録などをみると、こんにちでさえ進歩的でありす
    ぎるほどの思想のきらめきが見られるが、かといってかれは学
    問があるわけでもなかった。少年のころは塾からことわられた
    ほどに物覚えのわるい少年であったことから考えると、人間的
    にもかれは奇跡の存在であったことがいえる。

     この男が、薩長連合・大政奉還という日本史上の大芝居をほ
    とんど一人で案出し、演出し、成功した。歴史を二度にわたっ
    て転換せしめた点、これは維新史上の奇跡的な事実といえるだ
    ろう。
     この点、龍馬は、天が日本史上最大の混乱をまとめるために
    さしだした若者のように思われる。その役割がおわったとき、
    天はただちにかれを召し上げた。この点がいっそう龍馬という
    青年の存在に奇跡的なにおいを放たしめる。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    

    龍馬は高杉晋作からピストルを寄贈され、護身用に持ち歩いたとされている。
   寺田屋ではこれを使ったのだろうか?(展示品は多分レプリカでしょうが)

    しかし、翌慶応3年11月(1867年12月10日)にはこのピストルで防御する暇もなく、京都河原
   町の近江家で何者かに中岡慎太郎とともに暗殺されてしまうのである。

    
   
    近江家での暗殺実行者を巡っては諸説あり、いづれが真実かは判っていない。暗殺現場にいち
   早く駆けつけた土佐潘の藩士はまだ息のあった中岡慎太郎から様子を聞き取り、新選組の仕業と
   断定した。龍馬と同じ土佐藩の郷志出身の谷干城(たにたてき)は、後に戊辰戦争で新選組を徹
   底的に討伐し、近藤勇を千葉の流山で捕らえると切腹でなく斬首を命じている。尚、谷はのちに
   西南戦争で熊本鎮台司令長官となり熊本城を死守した政府軍の勝利の立役者である。
   
    さて、話を新婚旅行に戻そう。

   2月29日  お龍を連れ、鹿児島に向け京都を出立。
   3月4日   薩摩の「三邦丸」で鹿児島に向かう。
   3月8日   途中長崎に寄る。 
   3月10日  鹿児島着、西郷邸、小松邸等に泊まる。
   3月16日  鹿児島天保山から船で錦江湾を横切って浜之市港に上陸し、日当山温泉へ泊まる。
   3月17〜18日 塩浸温泉で手傷の治療をする。和気神社、犬飼滝を訪れる。
   3月28日 栄之尾温泉で療養中の小松帯刀を見舞う。硫黄谷温泉泊。
   3月29日 高千穂登山をする。女人禁制のためお龍は男装で登る。霧島神社参拝。
   3月30日 再度、硫黄谷温泉泊。
   4月1日  塩浸温泉で7泊する。 
   4月12日 鹿児島へ帰り小松帯刀邸へ約50日間滞在。  
   6月2日  桜島丸にて天保山より出港、帰途につく。
   (霧島市総合観光案内を参照、日付は全て慶応で旧暦)

    
   (塩浸温泉(しおびたし)にある像、霧島市総合観光案内より)


    龍馬は姉の乙女には沢山の手紙を送ったといわれている。
   この鹿児島旅行をいたく気に入った様子で、イラスト入の詳しいものだそうだ。
   
       慶応2年12月4日 坂本乙女宛の手紙(霧島市総合観光案内HPより)
 
   ●乙女さんに差し上げます。前々から申し上げていた妻のお龍は、私が寺田屋で襲われた時に
    機転をきかせてくれた私の恩人です。3月に京都での治療が終わり、龍と二人で鹿児島へ旅
    行することにしました。霧島山へ行く途中、高さ50間(100m)ほどのめずらしい陰見の滝
   (犬飼滝)というものを見ました。ここで10日ほど泊まって谷川で魚を釣り、ピストルで鳥を
    撃ったりして、大変楽しく過ごしました。それから山頂の「天の逆鉾」を見ようと妻とはる
    ばる登りましたが、これがひどい道で、女の足には難しいようでしたが、やれやれと腰をた
    たいて登ると、右の絵のような思いもかけぬおかしな顔つきの天狗の面があり、二人で大笑
    いしました。山頂は、眺めもよく、キリシマツツジが一面に咲いて、実に化粧をしたようで
    した。その山の大体の形は、絵図のようになっています。

   ●この逆鉾は、よく動くのでお龍と二人で鼻をおさえて、エイヤと引き抜いてみたら、わずか
    4〜5尺(1m20cm〜1m50cm)くらいでした。すぐ元通りに納めました。
   ●この穴は、火山の跡です。直径が3丁(約330m)くらい。すりばちみたいで下を見ると恐ろ
    しかったです。ここには、霧島つつじがたくさん咲いていました。
   ●イ〜ロ この間は坂道。焼け石ばかり。男でも登りにくく、とても危険。焼け石はさらさら
    で、少し泣きそうになります。5丁(約550m)も登ればわらじが切れます。
   ●ロ〜ハ この間は、「馬の背越え」(噴火口の縁を登る)です。左右目が届かぬくらい下がか
    すんでいます。あまり危なかしいので、お龍の手を引いてやりました。
   ●ハ〜ニ (山頂までの)この間は、たいへん楽なところで、すべっても落ちる心配はありま
    せん。
 
   
   
    → 楽天トラベルの龍馬の手紙

    この時が、龍馬の幸せの絶頂期だったろう。それは手紙によく書かれている。龍馬はその後
   慶応2年6月第二次長州征伐で亀山社中のユニオン号で長州を支援したり、海援隊と改称した亀山
   社中のいろは丸が紀州潘船と衝突して沈没した事件で8万両余の賠償金を紀州藩に払わさせたり
   と活躍する。

    特筆されるのは、慶応3年10月の大政奉還である。同6月には薩土同盟を、薩長同盟につづい
   て成立させた事だろう。そのわずか5か月後11月15日に33歳で暗殺されてしまうのである。
   
      霧島神社
   

    皆さんも何時かご参拝を!
    鹿児島空港からだと車で40分です。
    龍馬が湯冶した塩浸温泉は車でわずか10分です。

    <終わり>

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・山中鹿之助  (10.07)

   「鬼と三日月ー山中鹿之介、参る!」(乾 緑郎・朝日新聞出版)が2013年5月に発行された。
   歌舞伎の祖といわれる出雲 阿国が登場したり、平将門の借り腹によるクローン人間が登場し
   たりと時代錯誤や医学常識を超越したお話である。

   でも主人公は山中鹿之介であり、これはほぼ史実に近い設定になっている。最後に甲部川(こ
   うべがわ)の阿井の渡し(現在の高梁川の阿部)で尼子家再興を果たさないままで最後を迎え
   る。小説では冥界の将門と斬り合い、将門に首を斬られるという奇想天外な結末となっている。
   
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                 (写真はwikipediaからの借り物)     山の端にかゝる三日月を仰ぎつつ"我に七難八苦を与え給え"と御家尼子家再興のため祈った    山中鹿之助幸盛のこの話しは有名である。昭和十二年(1937)より第二次大戦で敗戦を迎えるま    での八年間、尋常小学校五年生の国語教科書に『三日月の影』(井上赳著)として載っていたそ    うである。     武士道を精神的な支柱とした国民教育の題材とされたのだろう。無論、戦後ッ子の僕は知る    由もない。漫画本等の鹿の角と三日月の前立の冑姿の格好良さに単純にあこがれていただけで    あった。これらは軍事教育に利用されたとのことで、戦後直ぐにこの部分は多分黒く塗られた    事だろう。     鹿之助は主家尼子家再興のために、各地で転戦してきたが、最後の戦いであった播磨の上月    城(こうづきじょう・兵庫県佐用町)で毛利軍に破れ、主君の尼子勝久は自害したものの、家    再興の最後の夢を繋ぐ勝久の意向を受けて毛利に降った。しかし吉川輝元がいる備中松山城へ    護送される途中に、甲部川(こうべがわ・現在の高梁川(たかはしがわ))の阿井の渡しにて    謀殺された。ここに天正6年7月17日に鹿之助34歳の生涯を終え、尼子家の再興の夢は完全に消    滅した。     さて、この甲部川であるが、当地出身の筆者も聞いた事のない川の名前であった。読み方も    判らなかった。そこで高梁市文化交流館に訊ねたところ、同館の加古一朗氏から以下の懇切丁    寧な回答を得て得心したわけである。

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甲部川    『さて、「甲部川」は「こうべがわ」と読むのではないかと思われます。     現在の高梁川にあたると考えられます。     平凡社刊の『岡山県の地名』(日本歴史地名体系34)をみますと、現在の「高梁川」の名称は     明治2年(1869)から使われるようになったものと考えてよいとされています。     江戸時代以前の古名として「高橋川」、「松山川」が知られており、その他に     「軽部川」、「湛井川」、「酒津川」のように川が通過する地名で呼んでいたようです。     上流では「千屋川」、「新見川」、下流の山陽道の渡場では「川(河)辺川」、「酒津川」と     呼ばれていたといいます。      また、高梁川を「川島川」と呼んだり、酒津から分流していた時代には、西を「串川」、東     を「水江川」と呼んだりもしていたそうです。     天正10年(1582)、羽柴秀吉による備中高松城の水攻めの際、講和後、「備中河辺川」を境に     織田、毛利両軍が兵を引いたことが知られています。この「河辺川」は一般に「かわべがわ」     と読みますが、中世の史料によっては「カウベ」と記されているものもあり、「こうべがわ」     とも読まれていたと思われます。     お問い合わせの「甲部川」は山中鹿介の関わる説明にしばしば見られる表記ですが、『岡山     県の地名』でこの表記は見られませんでした。従って、音が通じる「河辺川」を「甲部川」     と当て字表記しているのではないかと思われます。これらのことから「こうべがわ」と読む     ように思われます。』

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墓      瀬戸内海から高梁川を遡ると、総社近辺から川に沿って国道180号線が北上している。その国    道が高梁の市街に入る直前に落合橋があり、この橋を渡ると成羽方面を経由して広島県の福山    に向かう国道313号線が走っている。その落合橋から350mほど西に行ったところに鹿之助の墓が    ある。     天正6年7月17日に謀殺された鹿之助の遺体は観泉寺(高梁市落合町阿部)に住職が葬った。    殺害現場の甲部川の中洲に榎を植えてその下に五輪の塔を建てたといわれる。この五輪塔は洪    水で流され、その後松山藩士前田市之進が現在地に慰霊碑を建てたと伝えられている。首級は吉    川輝元検分の後、備後国鞆に在していた時の室町幕府15代将軍足利義昭、毛利照元に送られた。

  →(「山中鹿之介の館」さんのHPにある墓)

子孫      天文14年8月15日(1545年)山中鹿之助は出雲国能義郡(現島根県安来市)尼子家の家来の子    として生まれた。尼子家は16世紀中頃まで出雲地方を中心に中国地方を支配したが、毛利元就の    攻撃を受け月山富田城(がっさんとだじょう)が永禄9年(1566年)落城して尼子氏は滅んだ。     逃れた遺臣たちは、山中鹿之助を中心に主家再興を誓う。天下統一を目指す織田信長に接近を    図った鹿之助は、羽柴秀吉の支援を得ることに成功する。     天正6年(1578年)尼子勝久を助けて、秀吉を総大将とする毛利討伐の先鋒として西播磨の上月    城に入城、中国遠征軍の最前線を担うが、織田信長が上杉謙信や石山本願寺の攻勢に備えるため    播磨から軍を引いたため、上月城は孤立し毛利軍の総攻撃に合い、尼子主従は城を支えきれず降    伏したのである。34歳に備中松山で殺されるまで誠に苦難の生涯であった。          甲部川で殺された鹿之助の長男とされる山中幸元は父の死後、武士を捨てて摂津国川辺郡鴻池    村で酒造業を始めて財をなし、のちに1919元和4年に大坂に移り、江戸時代以降の豪商鴻池財閥の 始祖となった。     Wikipediaによると、鴻池善右衛門は鴻池家代々受け継がれる名前で、江戸、明治、大正まで    続いた豪商だそうだ。第十三国立銀行(現三菱東京UFJ銀行)、日本生命等の日本の金融、貿易    界の創設にも関わっていた。     → 鴻池家の歴史参照(大阪美術倶楽部)      山中鹿之助は、尼子再興の夢は叶わなかったものの、自ら苦難を望んで勇気を持って最後ま     で夢を持ち続け生き抜いた様は戦国武将のなかでも一段と輝いている。

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・地上絵はナスカ以外にもある  (10.06)

    南米に行って、すっかり舞い上がってペルー「ナスカの地上絵」を見て興奮していたが、帰国後調べて
   いたら、ナスカ以外にも地上絵がある事が判った。
   ここにその様子を記しているのでご覧頂きたい。


    「ナスカ以外にも地上絵はあった」
   


    ナスカの地上絵訪問記録はこちら






























   



・フルベッキ写真 (10.04)     まづは写真をクリックして拡大表示して頂こう。                   最初にこの写真を見た時に、ちょっと変だぞ!と思いました。    次に、下の名前を見て驚天動地!    なんと幕末のそうそうたる人物の名前が列挙されているではないか?    西郷隆盛、坂本竜馬、明治天皇・・・。    本当に、この様な人物が一堂に会して写真に納まるものかな、と言うのが第一印象でした。     この写真のコピーを妙なところで入手し、調べている内に、これは「フルベッキ写真」と    言われている写真で、    「グイド・フルベッキとその次女・エマを囲んで、致遠館の塾生と岩倉具定・具経兄弟など     が集まり、写真師上野彦馬によって撮影された写真。現在の研究では、撮影時期は1868年     12月(明治元年10月-11月)頃とほぼ特定されている。」とネットに出ているではないか。     2006年2月5日付の東京新聞で「わすれた頃に復活」の題名で記事が掲載されている。    明治28年に雑誌「太陽」で佐賀藩の学生として、明治40年には大隈重信「開国50年史」でフル    ベッキ及其門弟として、また大正3年の「江藤南白」にも佐賀藩の学生として掲載されている。         1985年(昭和60年)には自民党の二階堂進が議場に持ち込み話題になったそうである。    2004年12月には朝日、毎日、日経の各紙に「幕末維新の英雄が勢ぞろい」「歴史ファン驚き    の写真」と銘打って陶板額の広告が掲載された。いくら記事ではなく、広告とはいえ、大新    聞がこのようなものを載せるのはどうかと思われる。     しかし、どうもフルベッキ親子、大隈重信、岩倉兄弟を除き贋物であるとの説が定説の様    である。西郷隆盛も写真が残っていないので断定できないが、どうみても品位が感じられな    いし、明治天皇、勝海舟等も従来から抱かされてきたイメージから相当な乖離があるのであ    る、僕は。

   































・小栗上野介忠順  (10.03)
        

       (国立国会図書館ウェブサイトから転載)       (小栗家立波の家紋)

    群馬の高崎から草津へ伸びる草津街道(国道406号線)が榛名山の西麓を過ぎる所に、曹洞宗
   東善寺がある。高崎市は広大で、この辺りまでも高崎市である。この高崎市倉渕町権田のこの寺
   に小栗上野介は静かに眠っている。

    小栗は明治新政府軍により、慶応4年(1868年)水沼河原で家臣三名とともに斬首される。享
   年42歳であった。養子又一も高崎城内で家臣三名とともに斬首される。小栗は新政府に対して抗
   戦を徹底したのがその理由である。小栗の墓は東京・雑司ケ谷霊園にもあるが、ここには遺体は
   無い。群馬・倉渕町権田を流れる烏川の水沼河原で斬首の上、梟首され、後に館林の官軍へ首実
   検のため持ち去られたからである。館林の法輪寺に首は埋葬されたが、後日これを盗掘して権田
   村の東善寺に葬ったとされている。

    小栗上野介忠順(ただまさ)は幕臣であったが、日本の近代化に大きな足跡を残している。
   小栗は万延元年(1860)日米修好通商条約批准書交換使節の一員として渡米した。その時のエピ
   ソードがWikipediaに以下の様に紹介されている。

   『安政7年(1860年)、遣米使節目付(監察)として、正使の新見正興が乗船するアメリカ海軍軍
    艦ポーハタン号で渡米。随行艦である咸臨丸には勝海舟が艦長として乗っており、奉行従者には
    福澤諭吉がいた。2ヶ月の船旅でサンフランシスコに到着し、歓迎される。代表は新見正興であ
    ったが、目付の忠順が代表と勘違いされ、行く先々で取材などを受け、新聞などにも忠順の名が
    上がっている。勘違いの理由として、多くの同乗者は外国人と接したことがなく困惑していたが、
    詰警備役として異人との交渉経験がある忠順は落ち着いていたために、代表に見えたと言われて
    いる。』

    
   (The Japanese Mission at Washington Naval Shipyard on April 5, 1860)
   (前列、侍の右から2人目が小栗上野介、代表の新見正興はその左隣りだろう)


    東善寺さんのHPによると、以下のように記されている。
   作家司馬遼太郎は『明治という国家』のなかで、日本近代化に尽くした小栗上野介の業績をたたえ、
   「明治の父」との賛辞を送っている。また、東郷平八郎は「日本海海戦で完全な勝利を得ることが
   できたのは、小栗上野介さんが横須賀造船所を作っておいてくれたおかげです」と述べている。
      大隈重信に、「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と言わしめる程の人物だっ
      たのだろう。
      
    具体的には
        ・日本最初のフランス語学校設立
        ・フランス式陸軍制度の採用、訓練
        ・鉄鉱山の開発 中小坂鉄山(下仁田町)など
        ・日本最初の株式会社組織「兵庫商社」を設立
        ・ガス灯設置の提唱
        ・金札発行など金融経済の立て直し
        ・郡県制度の提唱
        ・森林保護の提唱
        ・江戸ー横浜間に鉄道建設の提唱
        ・新聞発行を提唱
        ・書信館(郵便制度)創設の提唱 
    等が小栗の業績である。


    「覚悟の人」佐藤雅美著(角川文庫)の中で、佐藤はこう小栗を讃えている。
   ”坂本龍馬、中岡慎太郎、西郷隆盛、大久保一蔵、桂小五郎、高杉晋作、勝海舟、近藤勇、土方
    歳三らが活躍したり暗躍したりした時代という風に一般には理解し、認識している。そんな時
    代に、経済や財政という異質のものに真っ向から取り組んでいたのが小栗忠順である。”

    小栗は三河以来の幕臣であり徳川に尽くすのは道理であったが、勝てば官軍のそのままに、歴
   史の中に消えてしまって評価されることが少ない。本当はこちらの方が評価されて然るべき人な
   のである。
   
   ”幕府の運命に限りあるとも、日本の運命には限りがない。”と述べて
   幕府の行く末は明確に見極めており、日本の将来を既に見通しているのである。

    山田方谷(本HPに掲載)も同様で、松山城主の坂倉勝静(かつきよ)が徳川慶喜に仕えた最後
   の老中であったために明治政府の覚え良くなく、やはり歴史から消された存在となっている。こ
   うした、反体制側の人々で優れた歴史の人物には、本当に凄い人物がいるものだ。後世の人々か
   らは、体制側の歴史操作で抹消や無視される場合が多い。見直されるべきであろう。
   
     

        (東善寺のHPより借用)

    小説「覚悟の人」によると、国名を名乗るのはふつうは越後守、豊後守と名乗るが、常陸、上
   総、上野の3国に限っては親王任官の国で、親王以外は「守」ではなく「介」と名乗らねばなら
   なかった。織田信長がそれを知らずに上総守と自官して物笑いになった。
    小栗は上野、下野、上総、下総の4箇所に知行所があったが、上野の群馬郡権田村との付き合
   いが深かったので上野介と名乗った。上野介と言えば「吉良上野介義央」が先ず思い出される。
   ”上野介”という名前は赤穂浪士事件以降忌み嫌われて誰も使わなかったが、小栗は意に介さず
   この名前を名乗って平然としていたらしい。しかし、最後は吉良同様首を討たれて同様に果てた。
    
    「覚悟の人」の著者佐藤雅美さんは、最後の将軍徳川慶喜について手厳しい評価をする。資料
   を調べるうちにそういう思いにいたったのであろう。英邁な君主として見てきた人が多いが、彼
   を唾棄すべき因循姑息な人物と見る。あの英雄視されがちな勝海舟についても、バッサリと切り
   捨てる。威臨丸の船長として日本人だけで太平洋を乗り切って米国に渡ったとされるが、その実
   荒れる太平洋上では外国人船員に助けられ命からがらサンフランシスコに辿り着いたのであり、
   勝は航海中船酔いと風邪で寝てばかりいたが、上陸すると俄然元気になって、なにかとでしゃば
   ったとある。勝は身分が低く、自分は実力通りに評価されてないとういう不平不満をつのらせ、
   長年の徳川恩顧を還り見ずに反幕運動をするさもしい卑劣漢と小栗をして言わしめている。

    
    東善寺さんのHP
































・ラストサムライ・林忠崇  (09.10)

     

   何年か前に「ラストサムライ」なる映画があって、主演の渡辺謙もさることながら、真田広之    や福本清三(せいぞう)のサムライ役がはまっていて感心したものだ。    林忠崇やこの二人も、背筋がピンと伸びて面構えが締まっているではないか!    これが、臍下丹田に力が入っている、サムライの姿である。    ラストサムライの写真。(Goo映画の”フォトギャラリー - ラスト サムライ”から借用)         まあ、「ラストサムライ」はフィクションだからどうって事はないんだが、歴史上本物のラス    トサムライがいて、しかも没したのが昭和16年で享年94と言うのだから驚きである。    林忠崇(ただたか)は千葉・木更津の請西(じょうさい)藩主だったのだ。だからラストサム    ライであるがラスト大名でもあったのだ。    その忠崇は、慶応四年、請西藩士約六十人と共に脱藩し遊撃隊を結成し、徳川恩顧の諸大名の 多くが官軍(新政府軍)に恭順する中、あくまでも徳川家への忠義を貫いたのである。あの篤 姫もさぞや感激したことだろう。     林家の家紋         林家の家紋「丸のうち三つ頭左巴に下一文字」の「丸」は盃を、「一文字」は盃を一番に賜る    家格であることを示している。忠崇がなぜこうまでして徳川家に忠義を尽くしたかには、以下    の様な訳があった。(中村彰彦著 『脱藩大名の戊辰戦争』 中公新書等による)    『 林家は代々徳川家に仕える直参旗本だったが、15代・林忠英の時に若年寄となり、加増され て一万石の大名となった。 林家の当主は、正月元旦に、将軍から最初に盃と兎の吸物を賜る ことから「一文字大名」と言われていた。     林家の遠祖・林光政は、「永享の乱」(室町時代の1437年(永享9年)に関東地方で発生した      戦乱。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立)に敗れて流浪していた徳川家の遠祖      世良田有親と親氏の父子を匿った際、苦労して捕獲した兎を吸物にして食べさせた。親氏は後      々までこのことを忘れず、後に三河国を支配して林光政を召抱えた。元旦の儀式はこの謂れに      始まった。     誇り高い一文字大名・林忠崇は、戊辰戦争で親藩、譜代の藩が次々と寝返る中、慶応4年に     遊撃隊とともに行動することを決意し、房総で兵を集めて相模に入って新政府の東征軍と抗 戦したが敗れ、以後、東北各地で転戦し、官軍に対抗し続けた。     しかし万策尽きて降伏した時、付き従う家臣はわずか十数名になっていた。藩は改易、藩重     臣は死罪、忠崇は江戸唐津藩邸に幽閉された。明治2年林家は養子の忠弘が相続し、三百石     の東京府士族となった。後に忠崇も明治5年に赦免された。』    慶応4年、20歳のとき遊撃隊を結成した時のものだろう。            大名自らが領地を捨て官軍と戦った例は他にない。そのためか、旧大名が華族という身分に叙    せられた時、林家だけが華族になれなかった。旧領地の開発農民、東京府の職員、物産商の番    頭、役所の書記など、様々な職を転々とした。見かねた旧重臣が私財を投げうって、林家家格 再興に奔走し、忠崇の養子忠弘は明治26年にようやく男爵に叙せられた。    最上段の写真は、09年09月29日朝日新聞夕刊「ニッポン人脈記・お殿様はいま」の中で、渋谷    在住の請西藩林家現当主が提供されたもの。    林家の家紋、記事内容は(http://spysee.jp/help/faq/ の林忠崇の項を参照させて頂いた) *********************************************    21歳の時に仙台で降伏を決意し死を覚悟して詠んだ辞世の句。    「真心の あるかなきかは屠り出す 腹の血潮の色にこそすれ」    晩年91歳の時に詠んだ句。    「琴となり 下駄となるも 桐の運」    これがラストサムライの生き様なのである。    →更に詳しく知りたい方は、    「脱藩大名の戊辰戦争―上総請西藩主・林忠崇の生涯 (中公新書) 中村 彰彦 (著) 」     があります。

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・忍城      

   秩父から駆け降りた荒川が、武蔵丘陵に沿って大きく流れを南方に転じ、利根の流れが東
   に向きを変えて悠然と流れ下る二大大河に挟まれた地点に、この忍城はある。この地はだ
   から水は豊富である。否、常に洪水に脅かされてきた地である。その地形を利用してこの
   城は築城されている。だから忍城はまたの名を”忍の浮城””水の城”と呼ばれる。
   
   

   この城は、秀吉の北条征伐の一環として、石田三成が10倍もの勢力を持ってして攻めても
   落ちなかったと言う。その前には北条と対立する上杉謙信をもってして攻めても落ちなか
   った難攻不落の城なのである。

   

   

   この城の南東2.5kmのところにある「埼玉古墳群」が、このあたりでは唯一の高所であり、
   その古墳の中でも一際高い「丸墓山古墳」が城攻略の本陣として利用されている。

   
   古墳の頂上から南東を見る。
   

   この城を題材にした小説には「のぼうの城」(和田 竜)と「水の城・いまだ落城せず」
   (風間真知雄)があり、城代成田長親をそれぞれ主人公とする小説である。
   「水の城・いまだ落城せず」では城主成田氏長の娘甲斐姫も大活躍する。
   天下統一を目指す秀吉が唯一、落とせなかった城としてこれらの小説は書かれている。
   成田長親は特別に戦略・戦術に長けている訳でもなく、武芸に秀でているわけでもないが
   人心を掴むことだけが唯一優れていた。
   
   小説だから史実とは違って、誇張や歪曲はいたし方ないが、いづれにしても10倍の敵にも
   関わらず落城しなかったのはそれなりの理由があったのであろう。
   関東一円にあった百を越える支城がことごとく落城させられたが、この忍城は最後まで落
   ちなかった。

   小田原城の開城後、忍城も開城し、成田氏長は烏山城主となった。成田長親も烏山城に入
   る。甲斐姫は秀吉の側室となり、秀吉が亡くなったあとは秀頼の子をも出産する数奇な運
   命を辿ることになる。

   天気のいい日を選んで、できれば春真っ盛りの頃、忍城を訪れてはいかがでしょうか?
   近くの「さきたま古墳群」もお勧めです。
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・熊田恰(くまたあたか)(1825〜1868年)  <本項は大半がコピペです>

   幕末の英傑であり剣豪でもあった熊田恰は我が郷土(高梁)の英雄の一人です。
   
   備中松山藩士、名は短芳。恰は通称。備中松山城下本丁(現高梁市川端町)に生まれる。
   有終館で学び、新影流の師範であった父武兵衛のもとで剣術を修めた。慶応四年(1868年)鳥羽
   伏見の戦の時、藩主勝静の親衛隊長として大阪詰めで活躍した。戦いの後、勝静から帰藩を命
   じられ、玉島(現倉敷市玉島)まで帰ったが、ここで岡山藩の征討をうけ、配下150余名の助命を
   請い、自刃した。

      熊田が切腹した西爽亭
   
   
      
     以下「山田方谷マニュアックス」の「玉島事件  熊田恰の死」より抜粋。
   ************************************************************************************
   玉島事件  熊田恰の死
   鳥羽伏見の戦いに敗れ、将軍慶喜とともに夜陰にまぎれ大阪城から逃れるため、勝静はそれま
   で自身の警護に当たっていた熊田恰以下150名の松山藩士をひとまず国へ帰るように命じた。

   熊田恰が14隻の船を雇い大阪を出発したのは1月7日、途中強風に妨げられ備中松山の飛び
   領土である玉島に着いたのは10日後の17日、きしくも方谷が備中松山城の無血開城を決め、
   藩士たちが領土外への撤退を進めていた最終日であった。

   玉島は地理的に備前岡山藩の目と鼻の先、熊田ら総勢150名の部隊の玉島上陸はすぐさま備
   前岡山藩に知れわたり、熊田隊は岡山藩の大部隊に瞬く間に包囲された。玉島の住人はこの土
   地が戦地と化す不安で大混乱となった。

   「鳥羽伏見の残党をみすみす取り逃がしたとなると、備前岡山藩のメンツは丸つぶれとなって
   しまう」備前藩としても、松山城の開城後とはいえ、熊田部隊を黙認できる状態ではなかった。

   熊田部隊の玉島上陸は方谷の耳にもすぐに届いてきた、「このまま放置していては、幾名もの
   無駄な命ををとすこととなる、」いかに方谷とはいえ、この事態を納める手段は一つしか見あ
   たらなかった。

   「150名の命にかえて死ね。」
   熊田恰の元に方谷の密使が密書を携え訪れたのは1月21日のことだった。

   熊田の切腹は玉島の松山藩御用達である柚木邸で行われた、介錯は熊田一族きっての剣の使い
   手大輔、熊田の座す下には血を目立たなくする赤い毛氈がしかれた。

   「お覚悟の時でございます」
   最後に熊田に声をかけたのは川田剛だった。

   松山藩士たちの見守る中、襟を正し東に向かい深く頭を下げた、江戸にいるであろう藩主勝静
   への最後の別れであった。そして・・・・
   柚木邸内に松山藩士たちの慟哭の声が響いた。

   民家に1戸の焼失家屋もなく、ただひとりの死傷者もなく静かに軍門に下れたことを密かな誇
   りとしていた方谷にとって、この思いもしなかった犠牲はどれほど悔しかったことであろうか。

   方谷は長瀬の自宅で熊田の最期を聞いたという、そして人前では泣かぬといわれた方谷が涙を
   流した。

   現在、玉島には熊田神社という神社がある。玉島の地を戦火から救った英雄として熊田恰は玉
   島市民の手によってに祀られている。
   ************************************************************************************
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・日本が目覚めた戦争
   (記事、写真共Wikipediaの各該当部分を参照しています)

   1863年5月〜1864.8月に起きた奇妙な戦争「薩英戦争」「馬関戦争」は戦争と言うより、発砲
   事件であるが、この2つの戦争こそ日本が始めて経験する欧米列強との戦いであった。

   「蒙古来襲」以来外敵の侵入もなく、鎖国政策で国を閉じていた日本が、この戦いで欧米の
   力を痛いほど知らしめられた。徳川幕藩体制を脱して日本国として統一し、以後「富国強兵」
   策に基づいて近代化を進めていくのである。
      
   *薩英戦争
   
   生麦事件を契機として起きたこの「薩英戦争」は、1863年8月15日〜8月17日に鹿児島の錦江
   湾に英国の艦船が入って艦砲射撃をして薩摩藩を威武する目的であった。ところが島津斉彬
   の頃から西欧技術を取り入れて、西欧化を不完全ではあるが進めていた島津藩は大砲とその
   操作技術を持っていて、英国の艦船に手痛い打撃を与える事になった。

   15日は多分台風だろうと思われるが、風雨が強いためもあり、艦船側からの砲撃は定まらず
   陸地の薩摩方は事前の演習の成果もあり英国艦船に大打撃を与える結果となった。ただし、
   風雨が収まった16日からは正確で威力の絶大な艦砲射撃により薩摩城下に甚大な被害を齎す
   結果となった。斉彬が作った集成館や、砲台は破壊し尽くされ、薩摩城下の一割ほども焼失
   して薩摩方の敗北となった。但し、英国は死傷者63名もあったのに対し、薩摩は僅か8名で
   あった。

   薩摩方に東郷平八郎、西郷従道、黒田清輝、大山巌等参戦しており、この欧米の技術の高さ
   に啓蒙されて後の日本の近代化推進の原動力となった事は間違いない。これは「馬関戦争」
   で長州藩の志士が同様の体験をしている。
      

   *馬関戦争
   
   
      米国は南北戦争中で、北軍のこのワイオミング号は
      南軍のアラバマ号を追跡してアジアに派遣されていた。
      
      
      
      
      フランス艦隊による下関砲台への砲撃
      
   尊皇攘夷を強硬に唱える長州藩が下関海峡を通る外国艦船に砲撃を加え、その報復として欧
   米列強から手痛いしっぺ返しをされたのが馬関戦争である。 
   英・仏・蘭・米の4か国対長州と言う、まるでお話にならない武力衝突である。しかし、当
   時の攘夷強行論者は本気で立ち向かったのである。1863年5月10日に初めて戦火が始まった。

      
         
      1860年当時当時の江戸城
      
   結果は火をみるより明らかであり、完全な長州方の敗北である。長州方の砲台は破壊尽くされ
   艦船(英国から購入した商船に砲をのせただけのもの)は撃沈させられた。
   欧米の圧倒的に優位な軍事力を思い知らされた長州は、高杉晋作が武士以外の農民や町人から
   なる「騎兵隊」を結成した。この「騎兵隊」は備中松山藩の山田方谷に学んでいる。

   薩摩藩と同様、長州藩も欧米各国の軍事力、技術力に圧倒され従前の攘夷政策を転換して欧米
   列強に学び追いつこうとする。これは後の明治政府の「富国強兵策」に結びついていく。
   しかし、こうした政策がある程度成功し、日本も軍事力が強化されるに従って外国を侵略し始
   め日清・日露の戦勝により、無謀な太平洋戦争へと突入して行くことになる。
   
   
      
   フランス海軍によって占拠された長府の前田砲台

   翌1864年8月5日〜7日に二回目の四国連合艦隊(英9隻、仏3隻、蘭4隻、米1隻)で兵5000の
   本格的攻撃が馬関海峡で実施された。場所は680年程前に源氏と平家が壇ノ浦合戦を行った場所
   である。連合艦隊の攻撃はすさまじく、長州の砲台は悉く破壊され、一部海兵隊が上陸して地
   上戦も行われた。
   
   
   連合艦隊の砲撃


   
   上陸部隊による戦闘

   

   禁門の変のために京に主力部隊を派遣していた長州藩は、下関には連合艦隊を迎え撃つ体勢が
   欠如しており、高杉晋作率いる騎兵隊2000と砲120門であった。山県有朋も騎兵隊に参加してい
   た。しかし兵力、兵器の差はいかんともし難く、長州は当然ながら惨敗を喫してしまう。

   尊皇攘夷を唱える長州藩は同調する公家と連携して京の政局を主導していたが、1863年(文久
   3年)8月15日の会津・薩摩による政変で京を追われていた。再度孝明天皇を長州陣営に取り込
   もうとして1864年に京都に乗り込み、会津・桑名・薩摩と戦闘を行ったのが禁門の変(蛤御門
   の変)である。
   その際、内裏、禁裏に向け発砲し、御所の中にまで踏み込んだので、徳川幕府はこれをもって
   長州を朝敵とし、長州征討を行った。しかし幕府方は旧式の軍隊であり、長州の勝利におわり
   徳川幕藩体制の終焉を決定付けた。備中松山藩も幕府方として長州征討に参加した。

   薩英戦争、馬関戦争の敗北による莫大な賠償金を支払う事になるが、これはすべて幕府が支払
   った。前者で2.5万ポンド(約6万両≒200億円)、後者で300万ドル(≒7,000億円)程度かな?

   薩摩、長州ともこの戦争を契機として開国、近代化に邁進していくのである。欧米列強も幕府
   の弱体化を認識し、薩長との連携を強めて行く。こうして、軍事力、経済力および政治力でも
   衰退して行った徳川幕府はついに幕を閉じることになる。
   その最後の場面で、我が備中松山藩主板倉勝静はそのブレーンであった山田方谷の知恵を借り
   ながら徳川の最後を演出するのである。

   江戸末期の貨幣価値が現在いくらなのかは、下記サイトで確認できる。
      inflation calculator
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・山田方谷(やまだほうこく)                
                                     2013.09
   2013.09.07 東京・二松學舍の大講堂で「山田方谷の志を学ぶシンポジウム」が開かれた。
   二松學舍は山田方谷の一番弟子である三島中洲が創設した学校で、現在でも学祖の師として山
   田方谷に対する尊敬の念は大きい。学舎のマガジンでも山田方谷生誕200年特集を組んでいる。

   

   シンポジウムは、平沼赳夫議員、水戸英則二松學舍理事長の挨拶に続き、徳川宗家19代の徳
   川家広氏の基調講演「幕末改革運動の中の山田方谷」が行われた。家広氏はなんとなく家康を
   彷彿とさせる容姿をお持ちである。

   氏は評判の良くない四代将軍家綱こそが、最も優れた施策を行ったと解説する。倹約令の発布、
   通貨の統一、貿易などの経済政策である。藩政改革を山田方谷に任せた板倉勝静も先見の明が
   あるが、それを受けて見事に幕末改革を成し遂げた方谷は偉大であったと振り返る。
   
   

   野島透氏(山田方谷六代目)の司会のもとにパネルディスカッションが続いて行われ、逢沢一
   郎議員、伊原木隆太岡山県知事、磯田通史(武士の家計簿の著者で、NHK・BS歴史館でも
   御馴染み)、橋本徹日本政策銀行社長、板倉重徳(板倉家12代当主)、櫻博子(東京岡山県
   人会女性部会長)が夫々の立場から山田方谷の志をどう学ぶか意見を述べた。
   ディスカッションと言うより意見陳述会ではあったが・・・。

   
   
   逢沢氏:藩や民の為に改革を行うという明確な指針を掲げ、物事を実現できる政治力を発揮し
       た方谷に学びたい。また、教育で国や人を育て、大局観を持ち、政治の姿勢を正した
       手法を参考にしたい。

   伊原木氏:天満屋の経営を31歳で受け継いだが、200億もの借金があり14年間でやっと
        半分返済できたに過ぎない。県政も徹底した情報公開によって政策を進めていきた
        い。借金が減っても経済が疲弊しては元も子も無い。選択重点投資は必要である。

   

   磯田氏:幕末の人物を挙げるとすれば山田方谷、佐久間象山、横井小楠それに桂小五郎だと思
       が、山田方谷が哲学がしっかりしていて一番である。藩政改革も対処療法ではなく、
       確固たる信念に基づく根本治療を施して成功に導いた点で傑出した人物であった。

   橋本氏:長い間金融業に携わってきたが、方谷に教えられることが多い。「理財論」にはその
       教えが沢山書かれている。「事の外に立ちて、事の内に屈せず」や「義を明らかにし
       て利を計らず」は特に参考になる。日本のこの財政危機に対処するには、中・長期的
       視点に立ち、消費税は上げ、それで経済が悪化すれば対策を講じるなど別の手段を考
       えればいいのではないか。

   板倉氏:樋口公啓氏の代理で出席を急遽徳川家広氏から求められた。殿の命には逆らえず出席
       した。氏は新宿伊勢丹に勤務する37歳の若き殿である。勝静が推進した教育の重要性
       を強く感じる。

   櫻氏 :福西志計子(しげこ)は順正女学校を創設して女子教育を推進した。(方谷の隣家に
       住んでいた福西志計子は方谷から漢学を学び、新島譲が高梁を訪問したことでキリス
       ト教に共鳴した。)
       方谷は財政改革のあと教育に力を入れているが、岡山から東京に学ぼうとする女性に
       は未だ宿舎という壁がある。男子には県の宿舎があるが女子には無い。土地は確保済
       であり、知事もお見えになっているので女子宿舎建築を願いしたい。

   


   最後に”方谷の志”東京宣言を櫻博子氏の朗読で行い、高らかに皆で宣言した。

   

       
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        2012.12         NHKの大河ドラマ「雲中の飛龍・山田方谷」放送の要望    100万人署名活動をやっています。「山田方谷マニアックス」からご署名をお願いします。    <昭和39年高梁高等学校卒業生の「雲中の飛龍 山田方谷」実現を求める全国100万人署名運動     の呼びかけ人としてお願いします>        「山田方谷」が NHKの大河ドラマに取り上げられるかも知れないという嬉しい知らせが、    2011年の晩秋に高校の同窓生から届いた。 来年は平清盛で決まっていて、再来年は女性が取    り挙げられるとすると、「山田方谷」はその次かもしれないとの事だ。    山田方谷の六代目直系子孫の野島 透氏の「小説山田方谷の夢」辺りがドラマ化されると、ま    ことに嬉しい事になる。        『山田方谷・備中松山の歴史は「敗軍」の歴史である。     日本の歴史、特に幕末史を見るとき、そのほとんどは「官軍(西軍)」の視線で描かれてい     る。この歴史の視点にそろそろ敗軍の視点も加える時期が来ていると思う。 山田方谷という人物は、何度も何度も”絶望的”な思いを繰り返し、それでもなお己を信じ、 「義」の為に、藩民の為に、全力で「絶望」と戦い、そして絶望の先にも必ず道は続いてい ると言うことを実践してきた。 今、”日本の経済的危機”にくわえ”東日本大震災””原発事故”という未曾有の危機が日 本を覆う、一方政治は混迷し、解決策は全く見いだされていない。 いま、こんな時だからこそ、「山田方谷」と言う人物が存在し、様々な絶望と戦い、そして 克服してきたという歴史を知ることは、今後の日本にとって大きな意義があるとおもう。』    と山田方谷マニアックスは紹介している。 2011.11.13    *************************************************************************************        岡山から山陰の米子へJR伯備線が中国山地を横切って走っており、岡山を出て50分ほどする    と備中高梁に到着する。さらにそこから3つ目に「方谷」(ほうこく)という駅がある。これ    は人の名前が付いた珍しい駅で、山田方谷の生誕の地でもある。    人の名前の付いた駅は、実はもう一つある。鶴見線の「安善」(あんぜん)である。これは安    田財閥の祖「安田善次郎」に因んでつけられたものである。但しこれは鶴見臨港鉄道時代に    「安善通」駅として開設されたもので、1943年に同線が国鉄となった時点で「安善」駅と改称    されたものである。    山田方谷は備中松山藩の西方村に(現在の高梁市中井町西方)1805年(文化2)に生まれ、激動    の幕末を生き1877年(明治10)に没している。農民の出であるが(元は武士だった)、5歳にし    て朱子学を、29歳に京都に遊学して陽明学を学んでいる。    方谷は松山藩の板倉勝静(大政奉還時の老中)に仕え、松山藩の財政改革を見事達成した。幕    末時どの藩も財政的には行き詰まっていて、松山藩も例外にもれず疲弊していた。5万石と言    われながら1,2万石の実収しかなかったものを、方谷の改革によって20万石の実収といわ    れるまでに財政を立て直し、領民も潤ったとある。    方谷が改革を行ったのは松山城御根小屋であろうと思われる。これは松山城は臥牛山の山頂に    あり、日常の藩政はその麓のここ城御根小屋で行われた。いま、その跡は高梁高校となってい    る。僕の母校でもある。        高梁高校の高梁川を挟んだ向こう岸に「方谷林」という方谷を記念した公園がある。    方谷林 → 方谷林    方谷林から高梁市街を望む        方谷が仕えた板倉勝静は安政の大獄で井伊直弼が討ち取られた後の大老で、徳川吉宗の玄孫で    ある。方谷が徳川の大政奉還の元案を、勝静を通して出したのではないかとの説もある。勝静    は徳川の人であるから、最後まで幕府軍に参戦し函館まで行っている。方谷は勝静の養子・板    倉勝弼を新藩主に迎えて松山の領民を戦いから救うために政府軍に松山城を明渡している。こ    こに到って勝静は降伏した。晩年は上野東照宮の祀官となった。    方谷は新政府から財政改革を高く評価して三島中洲らを通じて出仕を求められたが、領民達を    救うためとはいえ心ならずも主君・勝静を隠居に追い込んで勝手に降伏した方谷には二度と再    仕官をせず、明治10年(1877年)に死去するまで弟子の育成に生涯を捧げることになった。    方谷が教えた藩校「有終館」の有終を取って今も高梁高校には「有終」の校内報がある。また、    方谷は閑谷学校(日本最古の庶民学校)を陽明学を教える閑谷精舎として明治7年(1874年)に    再興している。ここも今は和気高校となっていて、僕の大学の同級生もここの卒業生でもある。    司馬遼太郎の「峠」に越後長岡藩の河合継之助が山田方谷に師事する様子が描かれているが、    実のある財政改革に河合継之助は感服した。また、日本の資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一に    も山田方谷の門人三島中洲を通じて強い影響を及ぼしている。    三島中洲は後に「二松学舎」を創立した。二松学舎からは犬養毅、牧野伸顕、夏目漱石、中江    兆民、嘉納治五郎、平塚雷鳥、黒田清輝等が輩出している。    現在800兆円を上回る未曾有の大借金をした政府自民党は、方谷の財政改革に学ぶべきであり、    彼の「爪の垢」でも煎じてのんではどうだろうか?    高梁は「フーテンの寅さん」が2度も登場したいい街でもある。備中・備北をお尋ねの際は、    是非高梁の山田方谷の足跡を訪ねられてはいかがだろうか。    山田方谷をより知りたい方は→ 山田方谷マニアックス        方谷の師匠 → 丸川松隠       弟子 → 三島中洲       丸川松隠、三島中洲については下記「有終」に関連記事があります。       高梁高校「有終」 → 有終    → この頁の最初に戻る
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≪30社会科学≫


・洋式便座での小便                                                2015.11.20
   
   洋式便座で男が小便をする時、今や約30%もの男が座って小便をしていると言い、年々その割
   合が増えているという。誠に嘆かわしい風潮ではあるまいか!男は立っていたすものなのであ
   る。トイレが汚れるというトイレ掃除を主に担当する奥さんの注文で、座っていたすよう強い
   られるのである。男の子もそう強いられ可愛そうである。

   Netにはこの事に関して様々な意見やら感想が書かれ、そして対策も述べられており、対策を
   施した商品も発売されているものの、そう簡単に長い男性史の習慣は変えられるものでもなく、
   高価な対策商品を購入することなど容易には出来ないのである。

   ならば、現在利用中の便器に対して涙ぐましいほどの試行錯誤をして、如何にして汚さないで
   ”立小便”をするしかあるまい!日本男子は一日に8回以内の小便回数なら”頻尿”ではない
   そうで、つまりインターバルが3時間を超えておれば正常なのだそうだ。それでも5,6回は
   いたすのであるからその都度”お座り”するのは堪ったものではない。
   
   膝を曲げて腰を落とし、便器の中の水たまりにできるだけホースの先を近づけていたすのであ
   る。むろん、ズボンのジッパーは最下段まで下しておいて、パンツも一物の下まで下げておい
   て、水滴が流れやすい態勢を執らなければならない。

   あっ、その前にトイレットペーパーを20cm千切って便器の中に縦方向に浮かせておき、更
   に20cmほどは別に千切って右手に持っておくのがよろしい。狙いを済ませたら、先に便器
   に入れておいたトイレットペーパーめがけて勢いよく発射するのである。そうすると紙が破れ
   水しぶきが飛散するのを抑制してくれるのである。長引くときは膝を直して少し立ち上がり、
   終わりが近づくのを待つのである。途中これを繰り返すと、膝の運動になって膝の筋肉が鍛え
   られる事間違いなくトイレの度に体が鍛えられる事になる。

   やがて終わりが近づいたら、むやみやたらをホースを振り回して水切りはせずに、最後の一滴
   が落ちるのを静かに待って終了とし、それでも辺りに水が散っていれば最後に右手に持ってい
   た紙でそれらを拭き取れば万全である。
   
   これが今のところ実施可能な最善の方法であると思っている。がしかし、諸兄の中には更に創
   意工夫をこらしておられる方もきっといることだろう!是非ご教授願いたいものだ、怖い山の
   神に対抗するためにネ・・・。

   トイレを変えようと思っておられる方はPanasonicのこの製品がお勧めだ。「アラウーノ」
   これを買ってと訴えたのですが、「最新トイレ」を2年前に付けたばかりなので即却下されまし
   た、はい!

   <後日談>                                                            2015.11.28
   この話をしてみると、僕の周りの男どももやはり同様の悩みを抱えていて、”座らされて”い
   る者が結構多いのである。「ToToさん、INAXさん、そしてPanasonicさんなど便器メーカーの
   皆さん」ここは一つ男の威厳?を保つために”立っていたす”ための便器を是非とも早急に開
   発して貰いたいものだ。ここまで様々な分野で女性上位が叫ばれてくると、大和男子は本当に
   ”総草食系”に成り果て大和男子は衰退してしまうぞ!
 
   さて、上の方法で実践してみると、やはり”膝をできるだけ曲げて腰を落とす”方法が最良
   であるやに思われる。腰を出来るだけ落とすと、もはや座るのと同等の効果がある・・・。

 



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・世界の交通事故
   
   世界中で発生している自動車の交通事故は年約600万件、死者は37.5万人にも登る。
   (2001〜2006の統計/(データは総務省統計局)
   (事故件数・・・原則として人身事故件数。死者数・・・即死及び交通事故発生後30日以内に死亡者) 
   これは主要42か国の統計であり、2009年1月で世界には193の国があり、統計に含まれない国が
   151か国もあることから、この数字は更に大きく膨らむ事は確実である。

   世界で最も事故の多いのは、やはり米国で185万件、次いで日本の95万件、インド44万件、中国
   38万件である。死者数はインド9.4万人、中国8.9万人、米国4.3万人であり、日本は8.5千人で
   ある。日本、米国は2004年、2005年の数字で、中国・インドは2006年の数字である。
   
   中国・インドは現在モータリゼーションが猛烈な勢いで進行しつつあるので、2010年ではもっと
   悲惨な状況であろう。そうであるなら、現在世界で毎年交通事故で死亡している人は多分50万人
   を越えているであろう。いや、60〜80万人にも及んでいるかもしれない。
   10年で600万〜800万人程度の人が自動車の交通事故で死亡するかも知れない、いや死んでいくと
   考えた方がいいのだ。

   自動車という便利な道具を考え出した人類は、これほどの犠牲を払うに値する価値を自動車に見
   い出していいものだろうか?交通事故対策を徹底的に行うか、さもなければ代替の移動手段を考
   えるべきではなかろうか?

   
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・桜葬(樹木葬)
   
   願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃
   
   これは西行(1118-1190)の60歳代の作だ。如月の望月は2月15日である。西行は2月16に逝去した。

   

   誰しも桜の咲く頃にその下で死を迎えたいものである。その桜の元に葬られることが実施されるよ
   うになった。
   1999年岩手・一関市の知勝院<旧・祥雲寺別院>で樹木葬墓地が始められた。

   岩手・一関の知勝院HP

   .........................................................................................

   Wikipediaによると「樹木葬」を以下の様に位置づけている。
   『「自然に帰る」「死後も大樹となって生き続ける」という点で理想的な埋葬方法のため、埋葬方
   法として樹木葬を行いたいという人も出てきたが、法律の問題があるため遺骨をどこへでも埋葬す
   ることはできないので、遺骨を山へ散骨することで樹木葬とする方法も出てきた。

   墓碑が無いような形を取る場合には宗教上、倫理上の問題が指摘されやすい。
   1999年、日本でも岩手県一関市に樹木葬墓地が登場。これは墓地をコンクリートのような人工物で
   作らないことで、墓地である山の環境を守れるという発想から生まれた。

   散骨のようにどこへでも好きなところへというわけではなく、墓地として許可された場所へしか遺
   骨を埋葬できないというデメリットがある反面、樹木葬墓地として指定された里山を育てる効果が
   ある。 墓地埋葬法に沿っているため、散骨のように遺骨を細かく砕く必要は無い。
   その為、通常の墓地と同じく埋火葬許可証が必要である。 現在埋葬されている墓地から樹木葬に祭
   祀を変更する場合には市区町村長の改葬許可が必要となる。これを怠ると刑罰の対象となりうる。』
 

   樹木の下に、陶器製骨壷から取り出した遺骨を竹や木などの骨壷入れて埋葬するものが多い。時の
   経過と共に自然に帰るのである。費用は30万〜60万程度が多いようだ。樹木葬は家族又は個人
   単位、桜葬は共同のため後者の費用は安いようである。

   全国で既に10箇所程度も桜葬(樹木葬)を行う組織(主にお寺)があるようであり、詳しくは
   「樹木葬又は桜葬」で検索されたい。

   .........................................................................................
   東洋大学 准教授の井上 治代は桜葬について次ぎの様に述べている。
   『<「桜」と共同性>
   私が活動している「市民団体・エンディングセンター」は、その前身を「21世紀の結縁と葬送を考え
   る会」と言った。発足は1990年7月。それから数えて15年目の今春、数年来あたためてきた
   「桜葬」を東京・町田市に実現する運びとなった。
   「桜葬」とは、樹木葬の一種。樹木葬はご存知のように、1999年に岩手県一関市の祥雲寺(臨
   済宗・千坂げんぽう住職)が、この呼び名の墓地を開設したことから広まった葬法で、自然環境保
   全を志向して外柵や墓石を設けず、遺骨を土中に埋めて樹木を墓標とする自然共生型の墓地である。
   散骨と違うのは、墓埋法に則って墓地として許可を得た区域で行っている点である。

   私たちは、樹木葬の中で墓標となる木が桜であるものを、特別な愛着をもって「桜葬」と命名した
   というわけである。
   三月のある日、こんな質問を受けた。
   「樹木葬ができて何年にもなりますが、どうしてこれまで、日本人が大好きな桜がなかったのでし
   ょうね」。
   その人は不思議がった。
   答えは簡単である。これまでの樹木葬墓地の一区画は、半径一メートルぐらいの墓所。その区画ご
   とに木を植えるわけだが、それが桜だったら、成長すると枝はとても半径一メートル以内には納ま
   らず、隣の区画まで伸びていってしまう。
   もうおわかりだろう。桜は一区画に一本植える形態には適さず、大きな木の下に、みんなで眠る形
   がふさわしいのだ。古来、日本人が愛でてきた桜は、人々が住むそばの里山にあって、桜は里に住
   む人々みなを見守り、包み込んできた。
   「大きな桜の木の下に、みんなで」
   このゆるやかな共同性が、桜葬の心地よさである。


   <ゆるやかな共同性と自然志向>
   核家族は、子どもが巣立てば「夫婦だけ」、夫婦の一方が亡くなれば「独居」、最後の一人が亡く
   なれば消滅する一代限りの家族。親子が同居するからこそうまくいってきた老親介護や先祖祭祀と
   いった家族機能は著しく衰えた。だからこそ介護保険制度ができて、第三者の手を借りるという
   「介護の社会化」が起こった。

   親子同居の家族では、「つながり」「絆」「永遠性」を感じつつ自らの死を迎えることができた。
   しかし、生き方が多様化し、核家族が主流になった現代社会では、三世代家族のときと同じシステ
   ムでは機能しない。

   それは決して現代人が薄情になったわけではない。子への愛情があるからこそ、「子どもに迷惑の
   かからないように」と親たちは介護や死後を第三者に託し、子からは実働ではなく、精神的な支え
   を求める傾向にある。これが現代社会の家族の「つながり」「絆」である。

   家族や親族、地域共同体といった「強い共同体意識」で支えられていた時代が終わり、「ゆるやか
   な共同性」の時代に入った。
   その具体例が桜葬である。個人、夫婦、あるいは家族で入るという個別区画を持ちながら、家族だ
   けでは担いきれないものを、大きな木の下に「みんなで眠る」というゆるやかな共同性に求めてい
   る。

   では、なぜいま自然なのか。
   それは、一つには工業化社会がもたらした自然破壊への反省を伴った自然回帰であり、もう一つは
   「自然という永遠性」が注目されているのではないか。
   従来の墓の継承制は人間関係の永遠性を約束してきたが、子孫があてにできない現代で、「家」の
   永続性という呪縛から解放され、「絆」や「永遠性」の代替が、家族も含んだ家族外部の人々との
   結縁(ゆるやかな共同性)や、自然の「永遠性」の中で眠ることなのではないだろうか。』
   ..........................................................................................

   先日白洲次郎の「武相荘」を訪れ、彼の遺言「葬式無用、戒名無用」に共感したが、この樹木葬・桜
   葬についても真面目に考えてみようと思う・・・
   
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・カニバリズム(人肉嗜好)


   韓国・北朝鮮からまた衝撃的なニュースが伝えられた。
   一つは「最高の滋養強壮剤」として人肉カプセルが韓国で中国から輸入して売られていたとい
   う話で、需要があるから売られていたのだろうが、おぞましい話である。

   もう一つは、起こるべくして起きたというべきか、饑饉に苦しむ北朝鮮の話である。これはあ
   りうる話で、わずか50年前の中国では共産党の政策の失敗で1959〜1961年の3年間続いた饑饉
   で約3,000万人が餓死したとされている。その時も凄まじい人肉食が行われたであろうとされて
   いる。北朝鮮は韓国に対して砲撃を加えるなどしたため、北朝鮮は韓国からの人道的食料援助
   も少なくなって、さらに天候不順による穀物収穫の減少もあって相当数の餓死者が出ている模
   様と伝えられている。
 
   <MSN産経ニュース 2011.7.21>
   韓国の有力月刊誌「新東亜」8月号は、死産した赤ん坊や生後1〜2カ月の乳児の人肉からつ
   くられた粉末入りのカプセルが中国から韓国に流入し、ソウルの薬剤市場でひそかに売られて
   いると報じた。

   韓国関税庁が近く検察当局に捜査を要請する予定という。

   同誌によると、今年初めに寄せられた情報を基に、中国現地で韓国に流入しているのと同じカ
   プセルを同誌が入手。関税庁の協力を得て国立科学捜査研究所で成分分析を行った結果、遺伝
   子情報が人間のものと99%一致した。材料となる乳児の遺体などは、ブローカーが吉林省延
   辺朝鮮族自治州図們市の病院から買い取っている。

   同誌の取材では、ソウルの薬剤市場に持ち込まれたカプセルは、大病を患った人に効く妙薬と
   して100個当たり70万〜80万ウォン(約5万2千〜6万円)で密売されているという。
   (共同)
   ....................................................................................




   <MSN産経ニュース 2011.6.20>
   北朝鮮で同僚殺し肉売る? 食糧難反映と韓国団体
   20日付の韓国紙、国民日報は、韓国のキリスト教団体が北朝鮮の犯罪事例が掲載されている
   同国当局の内部資料を入手し、食糧難を反映した事件が最も多かったと報じた。警備員として
   働いていた男が同僚を殺害して一部を食べ、残りを羊肉と偽って市場で売った事件も掲載され
   ていた。

   同紙によると、資料は2009年6月に警察に相当する人民保安省(現在の人民保安部)が参
   考資料として作成し、地方の出先機関に配布。721件の事件が具体的に紹介されており、人
   肉関連事件は5件だった。

   麻薬犯罪のほか、軍の通信線を切断して食糧と交換したり、当局者が国際機関の支援物資を横
   領して摘発されたケースも載っているという。(共同)
   ....................................................................................






   俗に、ザクロは人肉の味がするという。

   これはどうも間違いで、「鬼子母神がお釈迦様に説教され改心するまで子供を攫って食べて
   いたが、改心後子供の代替として人肉の味がするザクロを食べたのだ。そのため鬼子母神像
   は右手にザクロを持っている」のではなく、
   「鬼子母神様がこのザクロの枝を手に持つのは子供を守る神として子孫繁栄の願いが込めら
   れている」というのが正解のようです。
    

   それにしても、なんともおぞましい「カニバリズム」が世界中でかって存在した事は事実の
   ようである。
   飢餓、戦争、嗜好、憎悪、薬用のためなどの目的で行われたようである。
   歴史の長い中国にはその調理法まであるのだから驚く。中国は嗜好でこれをやった唯一の民
   族だ。

   ついこの前だった「文化大革命」時にもある地方で公然と行われたとの説もある。
   現在の飽食の日本では、飢餓など思考の片隅にもないだろうが、世界的な人口増大、異常気
   象等で食料が不足する事態は無いとも限らない。

   極限状態に置かれた人が人肉嗜好をした例は歴史が示す通り数多くあり、こうした事態が起
   り得ないとは言い切れないのである。

   どうも、こうしたおぞましい話題はあまり良くないので、興味のある方はGoogle等で検索し
   て見て頂きたい。
   多数の文献等あるが、一つだけ挙げるなら
   「支那人の食人肉風習 桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店 
   1968(昭和43)年2月13日発行だろうか。
    
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・ハロウィン

   ハロウィンは、11/1万聖節の前夜、10/31に行われるアングロサクソン諸国の祭りだ
   そうです。もともとケルト人の宗教行事だったものをキリスト教に取り入れたようです。

   ケルト人の一年は11/1から始まるので、10/31は大晦日な訳です。
   この日の夜、死者の霊や精霊、魔女などが出るそうです。日本の盆のようなものでしょうか?

   日本と違うのは、彼らは仮装したり、カボチャのお面を被ってそれらを撃退することです。日
   本の盆では死者の霊を迎いいれ、一緒に過ごした後、送り火で帰します。

   日本では、クリスマスと一緒で、宗教的意味合いは排除して単なるお祭りや商業目的で行われ
   るだけです。

   川崎で行われる「カワサキ・ハロウィン パレード」が日本最大のハロウィンの催でしょうか。

   
 
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・エンディングノート
                               16.9.9 に追記

    最近また親しい友人を亡くしてしまった。
   その彼がパソコンで株の取引きを行っていて、本人以外は口座番号やID、パスワードは知ら
   ないケースであった。
    Web取引では、取引データや登録情報の入力がなければ、何も変わらない。対面取引でも
   同じであろうが営業マンから”いい情報がありますよ”などの電話があればその時対応出来る。
    Web取引では、対応知識がなければ残された者は処理に途方に暮れるかも知れない。

   以下はSBI証券の本人死亡の際の処理の仕方である。
   「口座開設されているお客様が亡くなられた場合、相続手続きが必要となります。相続の際は、
   代表相続人となる方から、当社コールセンターのオペレーターにてお電話で詳細をお聞きした
   うえで、必要な書類を発送しています」となっている。

   ■コールセンター連絡先■
   【お問い合わせ・各種資料請求】0120-104-214
   【携帯電話・PHS】0570-550-104
   【営業時間】8:00〜18:00(年末年始・土・日・祝日を除く)
   
   ■お客様サイトへログインし
    画面左上の家アイコンのホーム・タブを押下し[サービス案内]→[特定口座・口座・税制・
    確定申告・相続] →[相続のお手続き]から行う。

    他のWeb取引証券でも一般的に、口座名義人が亡くなられた場合は、相続手続きが必要。

    大和証券の場合
    上段のツールバーの「サポート」→「各種お手続き」→[登録内容の変更]→「お問い合わせ
    ・お手続き」→[相続手続き]から行う

..........................................................................................

   『自分に万が一のことが起こった時のために、伝達すべき様々な事項をまとめてノート形式で
    記入しておくのが「エンディングノート」です。「エンディングノート」を書いておくと、
    自分の死後、あるいは意識不明となるような発病などの際に、役に立ちます。直接、伝えに
    くい事柄も、ノート形式で記録しておくことで、確実に伝えることができます』


   これがエンディングノートの利点であり、家族や他人様に迷惑を掛けずに済ます方法なのです。
   もし貴方が60歳を過ぎているのなら、是非真面目にこの「エンディングノート」について取り
   組んではいかがでしょうか?

   貴方が何かを蒐集していてとても大切なものでも、他人にとってや社会にとっては単なるゴミ
   でしかないものが大半なのです。貴金属や債券や有価証券、貨幣等を除いてはね。

   また、IT化、電子化が進んで来て預金や株券がインターネットを通じて処理されるようになると
   IDやパスワードも沢山利用されている。HP、BLOG、SNSや写真やデータのオンライン
   保存等を実施しているならNET上に沢山の情報が残っている。これらの処理は通常オープンに
   されるものではないので、本人しか処理できない事態となって多大の迷惑をかけたり、損失を出
   す恐れがある。

   IDやパスワードは秘密裏に管理するのが通常であるから、「エンディングノート」に掲載する
   場合は取扱いをコントロールしなければならない。更に、オフラインでもパソコン内や外部記憶
   媒体等に大量の写真やデータの保存がなされているときは、それらの処理方法を記載しておくべ
   きだろう。
   現在はテラバイト(ギガの1,000倍)単位の記憶媒体が出回っている。更にペタ、エクサ単位の記
   憶媒体が出てくるであろうから(ペタはテラの1,000倍、エクサはペタの更に1,000倍)これらの
   大量のデータ処理方法をも記載しておくべきであろう。
   
   千円以内で購入できる「エンディングノート」もあるようであるので、一度検索してご覧になる
   と良い。僕はその項目のみをEXCELに取り込んで、自分流のものを作成しつつある。完成し
   たら家族や親戚のITが理解できる者に閲覧方法を知らせておき、いざと言うときに利用して貰う
   つもりである。

   いくつかエンディングノートを記載しておきます、参考までに!

   ・MSエンディングノート(word版)

   ・エンディングノート・遺言の書き方

   ・エンディングノートとは

   ・自分なりの終末を

   ・私の生きた道・生きる道

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・直葬(ちょくそう)

   「直葬」という語彙を知りませんでした。まあ、字を読めば直接に葬るのだから葬儀無しかな
   とは想像出来はしましたが!でもいやな文字ですねえ。

   Netで「直葬」と検索してみると、「小さな火葬式、通夜・告別式を行いません、総額17.3万円
   追加料金一切無し」などと書いた葬儀社のHPが現れる。年間10,000件の実績、他に「小さな一
   日葬33.3万円」「小さな家族葬49万円」もあると出ている。

   今までは気に留めたこともなかったが、あの「日比谷花壇」がこの分野にまで進出している。
   コピー文はこうだ。「直葬なら日比谷花壇、Flowery Funeral、直葬プラン・おくりばな…。」
   
   直葬とは、「病院などのご逝去先から、火葬場へ直接搬送し、通夜や葬儀告別式を行わず、火
   葬のみを行うものである。法律上死亡時刻から24時間経過しなければ、荼毘を行えないので、
   実際の火葬は翌日以降になる。死亡届の提出、火葬場の空き状況等によって日時が決定する。」
   と書かれている。

   知恵蔵によると、「通夜や告別式などの宗教儀式を行わない、火葬のみの葬儀形態。近親者や
   友人など限られた関係者のみで執り行うケースが多い。葬儀費用が平均18万円程度と安価で、
   時間が軽減できることが利点である。一方で、十分な別れの時間が取れない、招待しなかった
   人々からの反感を招く、葬儀後に個別の弔問が多発するといった問題が起こるリスクもある。
   経済的な問題や宗教観の変化、人間関係の希薄化などにより、2000年以降、都市部を中心に増
   加している。NHKが2013年に行った調査によると、地域別では関東地方が特に多く、葬儀全体の
   5件に1件を占めている。」と葬儀の20%がこの形式になっているというから驚きである。

   NHKテレビ番組で「増える直葬その背景をさぐる」という番組が放映された。そこでは、4人に1
   人が直葬というおくり方をしている現状が報告された。この直葬は以前は経済的困窮者が主だ
   ったが、社会的に認知されてきているという。
    直葬を選ぶ理由として番組では
   @家族に迷惑をかけたくない A子どもや身内がいない B自分の価値観にあった葬儀
   を上げていたと「仏声人語」のサイトに出ている。

   この分では、僕も”直葬”になる確率が高い。多分経済的理由で!
   しかし、せめて”竹”クラスにして貰い、棺桶にはこのHPのHTML文とゴルフボールの一つでも
   入れて貰えるよう「エンディング・ノート」に書いておこう!
   この直葬の後は、 樹木葬にでもして貰うかな!
   
   その日が遠くないあなたのために、参考になるかどうかですが
日比谷花壇のサイトです。
    → 同じ頁の最初へ戻る → 最初の頁へ戻る ≪40自然科学≫


・重力波観測 (2014.03)
 
   2014.3.17に米ハーバード大学等のチームが、「原始重力波」の痕跡を南極に設置した電波望
   鏡で検出したと公表し、アインシュタインが100年も前に一般相対性理論で存在を予言した事
   を裏付けてみせた。
 
   宇宙はビッグバンの直後急速に拡大したとする「インフレーション理論」を裏付ける直接的な
   証拠となるそうである。138億年前に誕生した宇宙は直後にビッグバンを起こしたが、その後
   38万年の間は中心部の密度が高すぎて周りの物質と衝突を繰り返し光が飛び出す事も出来ない
   状態であった。

   これを観測するため、大気が安定している南極に電波望遠鏡を設置して、ビッグバンの名残で
   あるマイクロ波「宇宙背景放射」の観察を続け、ついにマイクロ波の振動方向分布が特定のパ
   ターンを描いていて、原始重力波による影響と予測されていたパターンに一致したことを発見
   した。

   重力波は重い星などが振動する際に、時間や空間の振動が周囲に伝わる波で、アインシュタイ
   ンがその存在を予言していた。

   二間瀬敏史氏が「ブラックホールにちかづいたらどうなるか?」(さくら舎・2014/2月刊)の
   エピローグで重力波とブラックホールについて次のように書いているが、こんなにも早く重力
   波の検出がされた事にはさぞ驚いているだろう。
   
   「20**年、岐阜の神岡鉱山の地下に設置されたニュートリノ望遠鏡と重力波望遠鏡が宇宙から
    のニュートリノと重力波を検出した。1987年に大マゼラン星雲に現れた超新星の時に捉えら
    れたニュートリノは11個に過ぎなかったが、今回は数千個のニュートリノと重力波が検出さ
    れたのである。これは超新星爆発が銀河系の近くで起こったことを示している。重力波は超
    新星爆発が周りの空間を振動させ、それが地球に伝達したことを意味している。世界中の望
    遠鏡でも同様の信号を捉えていて、総合すると、南十字星の近くの「りゅうこつ座」の星座
    にある「イータ・カリーナ」と呼ばれる地球から7500光年にある星であることが分かった。
   
    この「イータ・カリーナ」は太陽の70倍の質量をもつ星で、星の進化の最終段階を迎えてい
    て、これが爆発したのである。世界中の天文学者が見守る中、ニュートリノと重力波観測か
    ら10時間後、木星の様に輝く星が現れた。これが「極超新星」とよばれるブラックホールの
    誕生が観測された歴史的な瞬間であった。」 

   
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・SETI(地球外知的生命探査)(2014.01)
 
   兵庫県立大学西はりま天文台の鳴沢真也さんの「宇宙人の探し方(幻冬舎新書2013.11)」を読
   んでいたら、地球外知的生命探査(SETI)について科学的に真面目に書かれていた。

   この手の話はSFと混同されがちで、真面目に考えられない事が多い。映画では、1968年公開
   の「2001年宇宙の旅」、1977年の「未知との遭遇」、1982年の「ET」、そして1997年の「C
   ONTACT」等が「2001年」を除いて地球外知的生命の物語となっている。これらの映画を
   見た程度の知識しかないので、SETIについて真面目に考えた事もなかった。

   
   
   SETIは(Search for Extra-Terrestrial Intelligence)の略語であり通称「セチ」という。
   SETIには地球から電波を発信するActive SETIと電波や光を受けるPassive SETIがあり、
   電波望遠鏡で受信した電波を解析するPassive SETIが主流である。光学望遠鏡を利用する方法
   もあり、それらはOSETI(光学的地球外知的生命探査)と呼ばれている。

   我々地球人の存在確率は100垓(がい)分の1なのだそうです。つまり10の 22乗分の1。
   銀河系には約1000億個の恒星があり、宇宙には約1000億個の銀河があるので1000億×1000億で
   100垓になります。学校のプールに砂を入れると大体1000億個だそうで、100垓は世界中の海岸
   にある砂の数よりも多いものだそうです。宇宙はそれ程に大きな存在であるので、地球に似た
   惑星がある確率は大であり、当然知的生命が存在する確率は大きい訳です。

   世界でも日本でもSETIは数多く進められていて、日本では西はりま天文台の鳴沢真也さん
   等が中心になって進められている。有名な天文学者の故カール・セーガンさんもSETIを推
   進された一人である。氏の残した有名な言葉に「地球外文明探査は人類にとって、”失敗もま
   た成功である”と言える数少ない活動の一つである」がある。

   SETI@home(セティ・アット・ホーム)と呼ばれるユニークな活動がある。これはプエルトリコ
   のアレシボ天文台によって収集された宇宙から届く電波を解析し、人為的に発信されたと思われ
   る信号を検出することによって行われる。この情報処理は非常に膨大な計算量を必要とするため、
   プロジェクトと同名のSETI@homeと呼ばれる無償の解析クライアントソフトウェアを配布するこ
   とで分散コンピューティングによって計算能力を確保している。このSETI@homeはインターネッ
   ト接続されたコンピュータ群を使うボランティア・コンピューティングプロジェクトで、アメリ
   カ合衆国のカリフォルニア大学バークレー校 Space Sciences Laboratory が運営している。SET
   I@homeはSETIの一部である。その目的は地球外知的生命体の証拠を検出するため、観測データの
   分析をサポートすることで、有益な科学的作業を行う。「ボランティア・コンピューティング」
   という概念の実現性と実用性を証明することである。

   つまりインターネットに接続したパソコンを有していれば貴方もSETIに関われるのである。
   SETI Institute Home

   

   また、もし電磁波などにより地球外知的生命を発見した場合のために、国際宇宙飛行学会の取決
   めも出来ている。1973年4月5日にパイオニア11号で打ち上げられた惑星探査機ボイジャー一号は
   2012年8月に太陽圏を脱出して恒星間飛行を続けていて、地球外知的生命に回収された時にメッ
   セージを渡せるよう金属板のディスクを持っている。最も近いケンタウルス座アルファ星に向か
   ったとしても8万年も掛かるのであが。

   

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・日本消滅巨大噴火(2014.10)
 
   なんともショッキングな事である。2014年10月22日に神戸大学大学院理学研究科の巽好幸教授
   が発表した「日本列島で今後100年間に巨大カルデラ噴火が起こる確率は1%」というニュースで
   ある。御嶽山の爆発やその他の火山活動の活発化が言われているこの時期でのニュースだけに
   一層注目される。巨大カルデラ噴火の確率は100年で1%(マイナビニュース)

   3.11のM9の巨大地震の後では火山の噴火は付きものだそうで、過去においてもそうした噴火
   は幾度も起きている。カルデラ噴火と言えば阿蘇山をすぐ思い出すが、航海日誌さんのHPに日
   本の主要カルデラが載っているのでリンクさせて貰うとこんなにも沢山ある事に驚かざるを得
   ない。日本の主要カルデラ

   wikipediaの破局噴火
   NHK カルデラ噴火! 生き延びるすべはあるか?
   いづれを見ても絶望的なもので、こうした噴火が起これば日本は消滅するしかないのであろう。
   日本の北海道から九州に原発54基があるが、これらが噴火や火砕流などで破壊されれば、日
   本列島などは全く人が住める場所ではなくなる事だろう。噴火の影響だけでも1億以上の人間が
   生きていけないそうだから、せめて原発の放射能だけでも止めて貰いたいものだ!

   「日本列島で今後100年間に巨大カルデラ噴火が起こる確率は1%」という仮説は、
   日本をおそった巨大噴火(KAGAKU 2014.1)で東大地震研の前野深さんが書いている。
   前野さんも書いているように7,300年前に起きた喜界カルデラ噴火が最後のカルデラ噴火であり、
   凡そ6,000年〜10,000年周期で繰り返しているカルデラ噴火は何時起きても不思議ではないのである。
   火山噴火予知連の藤井会長は、「静かな時期しか知らないわれわれの火山噴火に対する危機感の薄さ
   から、火山研究に対する資源投入は、地震研究に比べて圧倒的に少ないのが現状です。火山研究の進
   歩なくして、火山大国日本で生き抜く知恵は見出せないのではないでしょうか。」と危惧する。

   東海地震、東南海地震、首都直下地震、富士山・箱根山や活火山の噴火そして襲い来る巨大津波、更
   にカルデラ噴火と日本列島は安全な場所は一つも無いのが実情だろう。それらが発生した時に海外に
   逃避出来る日本人はほんの一握りの人々だけだろう。 
 
   今後100年間に巨大カルデラ噴火が起こる確率は1%という事は、1万年に1回は発生し、最後の
   発生が約7,300年前の喜界カルデラ噴火(鬼界アカホヤ)であるなら、次回発生までは2,700年
   であり、誤差を考慮すれば危険域に入っているのは間違いない。
   これらに対処するには千年単位での対策が必要で、被害を少しでも減少させる方法を日本民族
   絶滅から守るために行うべきである。今から準備しないと間に合わないのではなかろうか。 

   



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・『幻の洋梨コミス』(2015.11)    正式には「ドワイエンヌ・デュ・コミス(Doyenne du Comice)」という洋梨である。僕はせいぜい    ラ・フランス程度しか知らないですが、1849年にフランスのアンジェで誕生した西洋梨で、まことに    美味であるらしい。10月初旬頃から12月頃が出回る時期らしい。    これを群馬の伊香保温泉近くの見城農園が販売している。一個千円近くもするが・・・。    近くに行く事があれば買ってみようかと思っている。    それとこの時期見逃せないのが山梨・境川の「寒桃」である。 → 同じ頁の最初へ戻る → 最初の頁へ戻る



























・地球の最後(2013.08)    カール・セーガン(Carl Sagan)はその著書「COSMOS」で地球の最後を次の様に言って    いる。    宇宙はその99%が水素とヘリウムで構成されている。太陽は誕生時に取り込んだ水素を毎秒4    億トン核融合してヘリウムに変換させながら太陽エネルギーを生み出している。しかしながら、    水素の核融合反応は永久には続かない。太陽も、他の恒星たちも、その熱い内部には、一定量    の水素燃料しか持っていないからである。星の寿命は、その星の最初の質量にかかっている。    地球の全生物はその太陽エネルギーによって生存している。植物が成長し、動物がそれを利用    している。誕生以来約50億年核融合を継続し、残りの水素の量は約半分である。それが燃え尽    きる50〜60億年後には太陽光エネルギーは消滅し、地球の全生物は滅亡する。    いや、その前に太陽はその最後に向けて膨張し、赤色巨星となって太陽系を全てのみ込んでし    まう。50〜60億年経ったとき、地球上では異変が始まる。太陽はゆっくりと赤くなっていき膨    張をはじめる。南極や北極でさえ暑くなり氷が溶けて海水面が高くなり、海水温も上昇して雲    が増え太陽光線を防ぐので地球の最後は僅かだけ延命される。    だが遂に大洋も沸騰し、大気も宇宙空間へと蒸発し、想像を絶する大破局が地球を訪れる。だ    が、その頃人類が生存していれば、現在とは全く異なっているものに進化していて、星の進化    を制御したり、和らげたり出来るだろう。あるいは、地球を離れて、火星やエウロパやタイタ    ンなどに向かうかも知れない。そしてまだ若くて将来性のある恒星の周りの、人の住んでいな    い惑星系を探し出してそこへ移住できるかも知れない。    太陽はやがて中心部のヘリウムを使い切ってしまうと炭素と酸素だけになって内部が収縮し、    最後の核融合を起こすものの数千年の単位で膨張、収縮を繰り返しながら最後には球状の気体    の殻を宇宙に噴出し太陽の質量の半分を失い、惑星状星雲に包まれ、小さな熱い星となって、    宇宙空間に熱を出しながら冷えていく。そして更に収縮を続け、スプーン一杯が1トン以上も    あるような高密度の物質になり、数十億年経つと、太陽は退化した白色矮星となって死に絶え    た黒い小さな星となる。    Carl Sagan(1934〜1996年)は米国NY生まれの科学者でご存知の方が多いだろう。NASAの太陽    系惑星探査計画で主導的役割を果たした事は周知の通りである。太陽、地球の最後ばかりでな    く、宇宙や生命の起源についても科学啓蒙家として知られている。    1万年でも相当先のことだが、何十億年も先と言えば想像もできない未来であり、はたして地    球がそんな先まで持つか疑問だが、想像するだけでも地球の最後は壮烈なものであろう。恐竜    が生きていたジュラ紀でさえも1億5千万年ほど前の頃で人類など影も形も無かった事を思え    ば、その30〜40倍もの未来なら人類もセーガンの言うように現在とは異なったものに進化して    科学技術も大変化している事だろう。        様々な小説や映画などで未来の地球を描いたものは種々あるが、地球が最後を迎えるよりもず    っと前に種としての人類が死滅する可能性の方が大きいであろう。この「知的好奇心」の「人    類は絶滅するか」には、50億年ではなく僅か5億年後には太陽の中心にあるヘリウムの減少によ    る熱核融合反応の加速化によって、地球は生命の住めない惑星となるとの説もある。そうした    宇宙の自然現象以外にも、地球温暖化とか核戦争等の人為的要因による人類滅亡の可能性は高    い。    カール・セーガンは「COSMOS」の締めくくりでこう言う。    古代ギリシャのアリスタルコスから現代までの瞬間に、人類が地球上に現れてから今日までの    年数の最後の0.1%に当たる僅かな期間に、地球は宇宙の中心でもなく、宇宙が人類のために    あるのでもないことに気が付いた。我々は毀れ易い世界に住んでいて、広大な空間と永遠の時    間の中を彷徨っている。宇宙には何千億個もの銀河があり、1兆の100億倍もの恒星が散らばっ    てる。    我々は星の灰から出来ていて、私たちの起源や進化は、遥か彼方の宇宙の出来事と結びついて    いるので、宇宙の探検は自己発見の旅でもある。    我々は、地球に住むようになってから、攻撃欲や儀式欲、指導者に屈服することや、外部の人    に敵意をもつ事などの遺伝的性質を進化の過程で持ってしまった。他方では、他人を思いやる    同情心や子供・孫への愛情、歴史に学ぶ気持ちや偉大で情熱的な知能も合わせ持っている。こ    のどの側面が優勢となるかは不明である。    核保有国の核が使用されると人類は核の直接破壊力や放射線、市の灰等によって滅亡する。人    類の自己破滅を齎す核戦争だけは必ず避けなければならない。    セーガンが深く関わったボイジャー2号は1977年8月に地球を出発し、今まさに太陽系を抜けて    飛び続けていて、その内部には宇宙人へのメッサージが積み込まれている。      → 同じ頁の最初へ戻る → 最初の頁へ戻る




























  








・宇宙の終焉 (13.08)
 

    2013.8.26の英国BBC放送の「地球伝説」を見ていたら宇宙の終焉をこう描いて予想していた。

   ヘリウムを使い切った太陽は赤色巨星となり地球も呑みこみ、やがて白色矮星となり、小規模
   の核融合反応で少しの光を出すがその光も途絶えて、最後に黒色矮星となって星の一生を終え
   る。

   1000億もの銀河を有する宇宙も、現在は壮年期で膨張を続けつつ星々の誕生、死滅をその宇宙
   内部で行いながら、過去から未来へ向けての「時間の矢」を持っている。その宇宙も100兆年後
   頃にはに宇宙自体が死滅状態となって、絶対零度まで冷え切り、過去も未来もない、つまりは
   「時間の矢」の時間も無い何も無い暗黒の死の状態になる。

        時の流れも、光も無い「無の世界」である 

 
   しかし考えてみれば、この状態は生命の「死」の状態に似ている。地球上の生物などその根源
   は宇宙のチリから出来たものであり、人間にしても大きなチューブに僅かの知能を付けただけ
   の生き物で、毎日チューブの上から食べ物と酸素を取り込んで、せっせと排出物と二酸化炭素 
   を吐き出して、あるいは生殖しなが子孫を残しているだけのものである。
   
   人類は宇宙時間でみるとほんの一瞬だけ、宇宙の片隅の銀河の更にそのまた片隅の地球という
   星に住み着いて、木の上に住んでいたサルが地殻変動や気候変動で地上に降り立たざるを得な
   くなり二足歩行で前足二本が自由に使えるようになって、物を作ってその過程で知恵が付き、
   他の生物を支配しただけの生物であろう。壮大な宇宙の営みの中の極小の事象だろう。人類が
   死に絶えるまでは、「死」には時間の流れは残るのだろうが、否、人類よりかは生き延びる生
   物が死に絶えるまでは時間は残るだろうが、宇宙の終焉時にはその時間さえも無くなるという。

   ******************************************************************************************
                                                                            (11.11)

    「膨らむ宇宙の結末は」 一千億年後空間バラバラに? 
   11.10.31の朝日新聞朝刊の「科学」欄の記事はなんともセンセーショナルである。

   最近の研究によると、宇宙の膨張速度がスピードアップを増していて、早まり方によっては
   「銀河もバラバラになり、太陽系も地球も形を保てずに大気が剥がれ、私達の体をつくる原
    子どうしも光より早く離れていく。そうしてついには空間も引き裂かれて宇宙は終わる。
   (東大数物連携宇宙研究機構・IPMU)」 
   同機構の高田昌広氏の計算によると、最も早ければ、その瞬間は今から一千億年後だそうだ。

   2011年のノーベル物理学賞を受賞した米ソール・パールマター、豪ブライアン・シュミット
   米アダム・リースの三氏の、1a型途呼ばれる超新星の観測で銀河の遠ざかる速度を調べて
   判ったそうだ。「アインシュタインの相対性理論を覆すほどの出来事」だとIPMUの村山
   斉機構長の談話も載せている。

   従来はビックバンで発生した宇宙の膨張は、星等の持つ重力で停止しやがて収縮するのでは
   ないかと考えられていたが、膨張が加速するなら銀河間がどんどん間延びして、人類の天の
   川は独りぼっちに成る事は決定的で、縮んで潰れる可能性は無くなったそうだ。

      
      (朝日新聞記事より)
   
   重力に逆らって宇宙を広げる力は「暗黒エネルギー」らしく、宇宙全体の73%を占める量ら
   しい。残る23%は重力を持つ「暗黒物質」で、わずか4%が星や人間なのだそうだ。その「暗
   黒エネルギー」について、ハワイの「すばる望遠鏡」で観測を2012年から始めるそうだ。

   IPMUの村山斉さんの「宇宙は何でできているのか」(幻冬舎新書)も参考にどうぞ。
   (僕には読んでも理解出来ない部分が多いですが)




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・ビールは、本当は体にいいんです!(13.05)
 
    戸部廣康著/角川SSC新書「ビールは、本当は体にいいんです!」はビール党にとって夢のよ
   うな書である。

   赤ワインに含まれるポリフェノールの抗酸化作用よりも、ビールのホップに含まれるイソフム
   ロンという成分の方が強い作用をするという。ホップの毬花(きゅうか)に含まれるフムロン
   が醸造中にイソフムロンに変化し、このイソフムロンには糖尿病や高血圧のリスクを減らし、
   アルツハイマーにも効くらしい。

   このイソフムロンは、加熱殺菌処理したラガービールの方が、フィルター殺菌処理する生ビー
   ルよりも多く含まれる。また発泡酒や第3のビール、ノンアルコールでもホップを含んだもの
   であれば良いらしい。

   俗に"ビール腹"と言って、ビールを沢山飲む人は肥満になると思われているが、これはつまみ
   に油っぽいものを沢山食べ、ビールを鯨飲するからである。一日に500mlのビールを飲むと、
   糖尿病や高血圧のリスクを減らし、体重を減らす事さえできるということが、バルセロナ大学
   やマドリッドのカルロスV保健研究所等の研究により、発表された。ビールには葉酸、ビタミ
   ン、鉄分、カルシウム等が含まれ、ワインと同等の健康効果があるとされた。

   上のスペインの研究では述べられていないが、ビールには更にホップに含まれるイソフムロン
   があるので、ビールの方がワインよりも良いかもしれない。ただホップは苦味があるので、苦
   手な方もあろうが『良薬、口に苦し』なのである!

   
   
 

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・雪男                                        (13.06)
 
    「雪男は向こうからやって来た 角幡唯介著/集英社」という本がある。この雪男という文字
   を見た途端、スラヴォミール・ラヴィッツの脱出記 「シベリアからインドまで歩いた男たち」 
   (ヴィレッジブックス社・海津正彦訳)を連想した。これは後に「ウエイバック」 という映画
   になって2012年に公開された。

   その脱出記で、極寒のシベリア、モンゴルの大平原、そして灼熱地獄のゴビ砂漠と歩き通し、
   最後に5000mを越えるヒマラヤ越えをしてインドに辿り着くのであるが、その最後の所で雪男
   に遭遇する場面がある。(映画では雪男は描かれない)
   
   本では、2時間ほども雪男と対面し、トラブルを避けるために道を迂回しその途中で残り少な
   くなった脱出者の一人がクレパスか何かに落ちて亡くなるという件りが書かれていた。この雪
   男との遭遇がきっかけで、後に英国に住んだスラヴォミール・ラヴィッツが注目され英国の雪
   男捜索活動熱を巻き起こしたのである。英国の新聞記者は当初雪男の取材にラヴィッツを訪ね
   ていたが、そのシベリアからの脱出のスケールに圧倒され、雪男のことは他に任せて上記の本
   「脱出記」の作成に傾注して行ったのである。

   いまどき「雪男」でもあるまいし。と思うのが現在の通念だと思うが、とりあえずこの分厚い
   「雪男は向こうからやって来た」を読み進んでみた。
   結論からすると、雪男は発見できなかったのである。目撃証言や足跡の写真は多くあるが、決
   定なものは未だ無い。
 

   冒険家鈴木紀夫の雪男のスケッチ
   (鈴木の遺稿に残っていたもの・「雪男は向こうからやって来た」から拝借)

   

   ************************************************************************************
   Wikipediaによると、
   『ヒマラヤ山脈のイエティ、ロッキー山脈のビッグフットなどを指すことが多い。 日本国内
    では中国山地のヒバゴンも雪男とされる。 なお、「雪男」と訳されるが、本来性別は限定
    されていない。中国では「野人」と呼はれる。 それぞれの雪男の共通点として、人里離れ
    た山奥に住む、全身毛むくじゃら、直立二足歩行するという特徴が挙げられる。体色につい
    ては、白、茶色、灰色など諸説あり、共通認識とはなっていない。

    目撃証言はあるが、ヒグマやハイイログマ(グリズリー)等の見間違いも多いとされている。
    それ以外の説としては、毛皮を着た猟師や猿人、ギガントピテクス(アジアに生息していた
    巨大類人猿の化石種)の生き残り、未発見の生物などが挙げられる。 ゴリラがヨーロッパ
    では(ギリシア時代からの記録がありながら)19世紀末まで架空の生物だと思われていたと
    いう例もあるので、雪男についても実在を強く信じる人間は少なからずいる。

    一方、ヒマラヤ地域のシェルパがヒグマを「イエティ」と認知していたことが判明している。
    ブータンで「雪男」を指すとされた「メギュ」、チベットでの「テモ」もヒグマを指す名称
    だった。

    しかし、2011年にロシアのケメロヴォ州で開かれた雪男に関する国際会議では、ケメロヴォ
    州に95%の確率で実在するとの結論が出された。』
    
    2011年10月6日〜10日に西シベリアのケメロヴォ州で「雪男に関する国際会議」と大規模捜
    索がロシアや米国、カナダ、中国などの研究者が参加して実施された。6日からの現地調査
    の結果、洞窟内でイエティとの関連が推測できる毛髪や足跡を採取したという。イエティは
    ヒマラヤ山脈の方が有名だが、同州にも「目撃情報」はある。タス通信によると、1958年に
    も今回のような大捜索をソ連科学アカデミーが実施した。
   ************************************************************************************

 
   また2011年12月にはロシアの北カフカスで「雪男」捕まるというニュースがあった。
   『ロシア北カフカスのイングーシ共和国の国境警備隊は、森で「雪男(イエティー)」を捕ま
    えた。インターファクス通信がイングーシ共和国のマルシャニ社会発展相の発言を引用して
    伝えた。
    マルシャニ社会発展相によると、はじめこの奇妙な生き物は、地元の農場の羊を盗んだ熊だ
    と思われたが、その後、その熊が住んでいた森を調査した国境警備隊が、身長が約2メート
    ルの奇妙な生き物を発見したという。

    社会発展相によると、捕らえられた生き物はゴリラによく似ており、身長は約2メートルで
    黒っぽい色をしている。ゴリラとは違って歩行の際には「前脚」で支えることなく、人間の
    ように垂直に歩くという。唸り声を上げ、奇妙な音を発している。この生き物は、メスでは
    ないかと見られている。

    マルシャニ社会発展相によると、大きなゴリラには通常、長くて大きく重い腕があるが、
    捕獲された生き物の手は短く、人間のように二本足で立っているという。
    社会発展相は、生き物は非常に脅えており、主に肉や植物を食べていると指摘した。
    社会発展相は、数日後にこの奇妙な生き物を引き取るためにモスクワからイングーシ共和国
    に専門家らが到着すると伝えた』との事である。

   (同上記事に掲載されている胡散臭い写真、クマゴンの方が愛嬌がある:RIA Novostiから拝借)

   

   ************************************************************************************
 
    「雪男は向こうからやって来た」の中で角幡は日本の著名な登山家とインタビューし、雪男
    らしきものを目撃した人物として芳野光彦、田部井淳子、小西啓文、尾崎啓一、今井通子等
    を挙げている。登山家ではなく冒険家だろうが、ルバング島で小野田寛郎を発見した鈴木紀
    夫について詳しく書いている。

    鈴木は1974年に小野田を発見したばかりの翌1975年にはヒマラヤのダウラギリW(7661m)
    の近くのコーナボン谷に行って雪男の発見にトライしている。その後6回もコーナボン谷に
    行き、挙句1986年に雪崩に巻き込まれ、翌1987年に600mも流された地点で遺体で発見され
    たのである。鈴木は1975年に雪男らしきものを目撃したものの、確証がとれずその後5回も
    同所に行き雪男の第一発見者を目指した。だから途中ダウラギリW登頂を目指す日本の登山
    隊に会っても、多くの登山隊が山に入れば雪男を先に発見されてしまう恐れがあると雪男探
    検については固く口を閉ざしていたらしい。

    角幡は朝日新聞に勤めていたが、それを辞めて2008年の「ネパール雪男捜索隊員」に加わり
    捜索するが発見できず、諦めきれずに、隊を離れて更に単独で粘った模様をこの本に認めて
    いる。角幡は言う「自分が行った捜索や客観的な目撃談、足跡の写真に雪男の論理的な存在
    を認めることは出来なかった。私は雪男の存在を、実際の捜索現場ではなく、接した人の姿
    の中に見たのだ」と。

    こうも言う「私は最初から雪男を探そうとか、死ぬまで探そうと決めていた訳ではなかった。
    様々な局面で思ってもみなかった現象に出くわし、放置できなくなったのが雪男だった。旅
    先で出会った雪男は、彼らの人生を思いもよらない方向に向けさせ、そこから後戻りできな
    いものにさせるのである。その行きずりに私は心を動かされた」のだという。だからつまり
    ”雪男は向こうからやって来たのだ” 雪男を探す人々こそが角幡の雪男なのだろう!


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・大西洋を渡った新人(10.09)
 
    現在の人類の祖先ホモ・サピエンスは10万年ほど前にアフリカで誕生し、世界中に広がって
   行った(いわゆるグレート・ジャーニイ)が従来の定説であったが、南アメリカ・ブラジルで発
   見された遺跡、遺骨はグレート・ジャーニイを数万年も遡る前のものであった。
  
   
   (国立科学博物館HPより)

    従来では南米到着は約1.2万年前だとされていた。
   ところが、ブラジルのカピバラ国立公園(世界遺産)に残された3万点もの線刻による岩絵、洞
   窟壁画や人骨が発見されており、年代測定をしたところ最古のものは6万年も前のものだという
   事が判ってきた。世界各地に岩絵、洞窟壁画が残されているが、ここのものは規模が圧倒的に大
   きい。特に、船の壁画も描かれている事が興味深い。

    カピバラ国立公園の名前がついたカピバラは、例のネズミの親方のような動物で、食用に飼育
   しているものもあるらしい。味は豚肉のようだとか?体長120〜130cm、体重40〜60kgとかなり大
   きい齧歯類の動物である。
   
   
   (カドリー動物図鑑より)

    現代は最後の氷河期が終わって約1万年だとされている。アフリカを出発した新人は氷河で凍
   ったベーリング海峡を歩いて渡ったと習ったものだ。ところが上記のように、北米→中米→南米
   と移動してきた時代を遥かに遡る時代の遺跡、遺物が発見されて、グレート・ジャーニイでの
   到着のはるか昔から人類が南米に棲んでいた事になり、辻褄が合わなくなった。

    氷河期には海面は現在よりも170mほども低くなっていて、大西洋にいくつもの島が姿を現すら
   いのだ。その島々を壁画に描かれていた船で渡りながらアフリカから南米にたどり着いたので
   はあるまいか?どうもこちらの説の方が有力である気がする。

   カピバラ国立公園の壁画
   
   (考古用語辞典より)
   
    人類は猿人(アウストラロピテクス)→原人(ホモ・エレクトス)→旧人(ホモ・ネアンデ
   ルタールなど)→新人(ホモ・サピエンス)と言われていて、ジャワ原人や北京原人はホモ・
   エレクトスである。日本でも明石原人がいたとされるが疑問な点が多い。原人や旧人は絶滅し
   てしまって現代の我々の祖先は新人(ホモ・サピエンス)である。最近の研究結果では、一部
   の旧人と新人は交雑していたらしく新人に旧人の遺伝子が僅かに残っていた事が判ってきた。
   だが何故だか旧人は3万年前に絶滅してしまっている。
  
    ホモ・サピエンスである我々新人も何万年後かには新しい人類に取って変わられるのであろ
   うか?いや、現在も殺し合い、奪い合い、自然を破壊し続ける新人は近い将来自ずから絶滅す
   る道にきっと進むことだろう。

    そうでなくても、自分から数えて1代前は両親で2人、2代前は4人、3代前は8人と親が
   居るのであり、わずか10代前で千人になる。現在の日本の人口1.2億人に達するにはわず
   か27代目である。こうなる以前に近親結婚で重複があるのであろうが、それがある限界に達
   すると新種と交わらない限り絶滅するようプログラムされているのかもしれない。旧人のネア
   ンデルタール人が突然絶滅したのはこうした原因かもしれない。


   この国立広園は觀てみたいものだが、少々遠いね・・・。





























   ・墨田川上流柳瀬川の鮎(10.08)




























・万年青(10.03)    残り実の万年青息づく春の庭
   
   秋に赤い実を付けたものが、庭陰にあったせいか鳥に食べられず、僅かに残っていた。
   万年青は秋の季語ですが・・・。

   万年青と書いてオモトと読む。
   万年青は、日本おもと協会に登録されているもので約1,000種類以上もある。
   斑入りや葉変わりがしたものなど様々である。
   静岡・豊明園さんのHPにある様々な万年青

   徳川家康が江戸城に入ったときの故事により、引越しの際、万年青を最初の荷物としてオモト
   を運最初に運び入れると、その家は代々栄えるそうです。

   江戸時代から観賞用に栽培されていたようで、一芽百両などと法外な値段が付いたものもあっ
   たそうです。今でも数万、数百万するものがあるらしい。オランダのチュウリップでも一時は
   球根一つで家一軒が買えるほどの値が付いたそうで、こうした例は他の草花でも時折ある。
   「明治十年頃には京都を中心に大きなブームがあり、一鉢千円(現代の一億円に相当)という例
    があった。その後も何度かのブームを繰り返しながら推移している。」とWikipediaにある。
































・世界一の桜の名所(10.02)
           
   日本の桜が世界一だと思っていたら、韓国鎮海(チネ)に32万本もの桜が咲く名所があった。
   あの吉野山の桜が5万本だから、およそ想像がつこうと言うもの。

   
   (写真はpusannavi.comさんからの借り物です)

           

   ここ鎮海は、文禄・慶長の役で李舜臣(イ・スンシン)が秀吉軍に対して活躍したところで、か
   って日本海軍の基地があったところです。今も韓国最大の海軍都市です。ここで毎年3月末か
   4月初に「軍港祭(別名、チネ桜祭り)」というのが盛大に開かれています。この約10日の
   期間は特別に海軍基地が一般公開される。

   かつて日本統治時代に軍事都市として開発された鎮海には、日本を象徴する桜が至る所に植え
   られた。解放後、これらの桜はほぼ全て切り倒されましたが、60年代に入り鎮海の桜の品種、
   王桜の原産地が済州島のものであることが判り、再度植樹したそうです。

   開花時期は、ほぼ東京と同じで、3月末、4月始め頃です。
   日本の3大桜も見た事だし、この桜でも見に行ってこようかな?但し、当地では桜の下で花見
   の宴は禁止だそうナ!

   如何にも韓国人らしいのは、日本憎しと桜を全て伐り倒したが、自国の桜と分かった後は日本
   の吉野山の5〜6倍もの植林をするところである。韓国は今や造船、電機、自動車等で日本を
   凌駕しているものもあるが、兎に角エネルギーが凄い民族だ・・・!

   ソウルの李舜臣
   
   






























・世界三大紅葉樹(09.12)
           
   世界三大紅葉樹
   ニシキギ、スズランノキ、ニッサシルバチカ(アメリカヌマミズキ)の三つが世界三大紅葉だ
   そうだ。

   ニシキギ(錦木)は幹にコルク質の翼状の物がついているが、付いて居ないものもある。
   ピンク色が美しい。
    

    



   鈴蘭の木は鈴蘭に似た花を付ける。
   (写真は借り物です)
    


   ニッサシルバチカはニッサボクとかアメリカヌマミズキと呼ばれる。
   (写真は借り物です)
    
   





   しかし、「世界三大紅葉」ではないもののモミジ、灯台躑躅 (どうだんつつじ)も素晴らしい
   紅葉を見せる。殆どの紅葉は、特に光の裏側から見ると実に美しい。
    
    灯台躑躅

    
    

    もみじ 

    

































・人間の寿命(09.05)
   
   人間の寿命はどれくらいなんだろうか?
     最近、自分宛に墓地の勧誘の電話がしきりに来るようになった。これは世間が「あなた
      の寿命がそろそろですよ」と教えてくれている証なのだろう。そうです、準備しなくちゃ!

   現在言われているのでは、だいたい120歳が限界なのだそうだ。140歳だの、150歳だのと
   言うのは正確な記録が無いからなのだ。

   人間は52回細胞分裂を繰り返すと、それ以上の細胞分裂は出来なくて、死が訪れるのだそ
   うです。細胞分裂はDNAをコピーし2つの細胞に分けるのだそうだが、DNAは2mの
   ヒモの線状になっていて細胞分裂の度にこのDNAの両端が短くなるのだそうです。そう
   して52回の分裂を最後にして、もうこれ以上の分裂が出来なくなると死ぬらしい。

   親から受け継いだDNAのひもの長さが1.5mなのか1mなのか不明ですが、自分のは現在
   相当短かくなっているのは確かだろう・・・。

   

   .........................................................................................


   こんな荒唐無稽と思える話もある。

   *ベニクラゲ、それは地球上で唯一の不老不死の生物

   ベニクラゲとは?  
   イタリアの国土はブーツのような形をしていますが、そのちょうどかかとのあたりをサレン
   ト半島といいます。ここの海岸付近の海底洞窟に不思議な生物が生息しています。それは体
   長が1センチにも満たない小さなクラゲで、ベニクラゲと呼ばれています。ベニクラゲとい
   っても、映像や写真で見るかぎり紅色ではなく、半透明の美しい体をしています。 

   このささやかな生命は、数年前に不老不死であることが発見されたのです。不老不死といっ
   ても絶対に死なないというわけではなく、老衰で死ぬ寸前にさなぎのような状態になり、そ
   の中でぐんぐん細胞が若返り、やがて生まれたばかりの姿に戻って、再び成長を始めるとい
   うことなのです。

   人間でいえば、天寿を全うして亡くなる直前の老人が赤ちゃんの時代にまで若返り、また新
   しい人生を始めるということです。まるで魔法のような話ですが、この地球上にはその魔法
   を実現した生物が確かに存在しているのです。


   
   生物には原核細胞(細菌等)と真核細胞(動植物、カビ・きのこ等の菌類)を持つものがあ
   り、原核細胞には死はないのだそうだ。条件さえ整えば永久に生き続ける。がん細胞やウイ
   ルスは不死の生物なのだ。 
 
   *→細胞(分子細胞生理学のHPより)

   































・人間は死んだらどうなるか

   この根源的な問題については多くの人が色々な事を言っている。
   その中で、これを一つ紹介しよう。
   河相全次郎の「死後の世界」 −人間死んだらどうなるか− 

   河相氏は1985年(株)八重洲ブックセンター会長。1986年(株)鹿島出版会副会長。
   1992年(社)日本書籍出版協会相談役。1993年鹿島建設(株)副社長。
   
                                                                         
   「死後の世界」 −人間死んだらどうなるか− 
                           河相全次郎  著 
    はしがき 
    私は昨年7月病院で胸に溜まった水を抜いたところ、しばらくして意識を失い、そのまま呼吸と
   心臓が完全に止まってしまいました。 いわゆる心肺機能の停止です。その瞬間、私は紛れもなく
   死を迎えました。この死亡体験のあとこのことを伝え聞いた小学生から老人ホームのお年寄りまで
   沢山の人々から死後の世界のことについて色々とお訊ねがありました。一応お訊ねについては、そ
   の都度いちいち私自身がお手紙や電話でお応えしていましたが、余りの数にお応えする私の方もと
   うとうお手上げになってしまいました。 
  
     死後の世界のことについてこんなにも沢山の人が関心をもっておられるとは思ってもみなかった
    私は驚くとともに困惑してしまいました。 そんなとき一人の友人が死亡体験にまつわることを小
    冊子にして、それをもって返事に代えさせていただくことにしたら悩みも解消するのではないかと
    いう知恵を出してくれました。なるほどと思い、早速つくってみたのがこの小冊子です。できる丈
    やさしく書いたつもりですが内容はいささか哲学じみてややこしいものになってしまい、さぞお分
    かりにくいこととは思いますが、これは飽くまでも私個人の死亡体験にもとづくものですからその
    点を 念頭におかれて読んでいただければ有り難いと思います。
   
    来世の有無問う人のあと絶たず 
   平成十五年二月 

   生命不滅
 
   祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 
   沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。 
   驕れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。 
   猛き人もついに滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。 
   これは彼の有名な平家物語の語り出しの言葉ですが、生あるものは必ず死すというのも又この世の 
   必定といえませう。

 
    実は私は昨年、心臓のバイパス手術をやり、もうすぐ退院というところで、肺に溜まった水を抜
   いたところ、暫くして意識を失いその内、呼吸と心臓が完全に止ってしまいました。今もってその
   原因はよくわからないということですが、紛れもなく死んだわけです。

    よく臨死体験をした人の話や書いたものを読みますと、綺麗なお花畑や、三途の川や、死んだ肉
   親に逢ったとうようなことが語られていますが、私の場合は死亡体験であったせいか、そんなもの
   は何も見ませんでした。それどころか神様にも仏様にも閻魔大王にも逢えませんでした。従って極
   楽も地獄も見ることはできませんでした。
 
    つまりは死後の世界は無かったということですが、この体験から来世が無いということはまず間
   違いない事実だと思います。それでは死んだ時どうだったかと云いますと、その瞬間、私の肉体は
   直撃弾にでも当たったかのように粉々に砕け散ってしまいました。文字通りの散華です。それから
   あとはもう何も無い「無」の世界です。そしてそのまま一週間が過ぎ、ひょっこり生き返ったので
   すが、その時はもう先生方も看護師さん達も皆あきらめていたようです。
 
    それから退院する迄の四ヶ月間、私は病院のベッドの上で色々なことを考えました。最初に考え
   たのはどうして死んだら「無」なのかということです。色々考えている内にどういう訳か、デカル
   トの認識論のことを思い出しました。例の「我思うがゆえに我あり」というあの有名な言葉です。
   この度の私の死亡体験をこれに当て嵌めて考えてみますと、認識の主体である自分が粉々に砕け散
   って消滅したのですから、デカルトの云うように、「そこには神もなく空もなく物体もなく、吾々
   自身にも、手も足もなく体さえもないと想定することはたやすいことである」(「哲学原理」第一
   部人間認識の原理について)ということになり、死んだあとは「無」であるということをこのデカ
   ルトの認識論のおかげで私なりに納得することができました。 

    ところがもう一つ困ったことが起こりました。実は私は毎朝仏壇にお灯明とお線香をあげ、光明
   真言を唱えるという割合に信心深い人間なのです。そんな人間が来世を否定しなければならなくな
   った訳ですからこれには参りました。 
 
    死亡体験によって得た来世否定と日常生活における来世肯定というこの矛盾を私の体の中で整合
   させ、自分を納得させる丈のセオリー(推論)を確立できるかどうかということは私にとって大問
   題です。なにしろ自分を納得させる丈の推論が確立できなければ、私はこれからの一生、この来世
   否定と来世肯定の矛盾に悩まされ続けなけばならないのですから。そこで私はくる日もくる日も病
   院のベッドの上でこのことを考え続けました。しかし、なかなかいい考えは浮かんできません。 
  
    色々と考えあぐねていたとき、なんの気なしにテレビをつけてみたところ、偶々カナダの川で撮
   った鮭の産卵のドキュメンタリーをやっていました。その時これを見ていた私の頭にあることが閃
   いたのです。皆さんもご存知のように鮭は産卵を了えるとそのまま死んでしまいます。然し死ぬ前
   にその生命は自分の産んだ卵を通して確実に次ぎの世代へと受けつがれてゆきます。そして子孫
   (種)が絶滅しない限りその命は永遠に生きつづけるのです。
 
    我々人間の場合も親が死ぬる前にすでにその生命は血液や遺伝子などによって確実に子供に受け
   継がれ、いつまでも子孫の体内に生き続けているのです。このように私たちの肉体は死によって消
   滅しても生命は子孫の体内にあって不滅なのです。従って、われわれは例え死んでもその生命は子
   孫の体内にあって現世にあるのです。そうして生命が現世にある限り来世も又現世にあるのです。
 
    となると、来世だとか現世だとかと論ずること自体が意味のないことのように思われ「生命は現
   世にあって不滅なり」という結論を得て納得することができました。
 
       御仏も神も御座さぬあの世かな  
       
   寿  命 

     あらゆる生きものにはそれぞれ必ず定められた寿命というものがあります。それでは一体その寿
   命というものは何によって定められているのでせうか。
 
     私にはそれは「子孫(種)をこの世に残すために必要とする時間によって定まる」ように思えま
   す。これは随分大胆な仮説ですが、今後、生物学や生命科学が進歩するにつれて次第にこのことは明
   らかにされてくるだろうと思います。例えば、蝉は羽化して三日で死ぬといわれていますが、蝉にと
   って子孫(種)を残すための仕事は木に卵を産みつける丈のことですから、それから考えると寿命は
   三日もあれば充分なのです。儚い生命の代名詞のようにいわれる蜉蝣は夏の夜一斉に羽化し、交尾と
   産卵を了え翌朝までには皆死んでしまいます。蜉蝣にとって子孫を残すに必要な時間は一時間もあれ
   ば充分なのです。そこでその寿命は羽化してから三十分から一時間位で尽きるといわれています。な
   んとも儚い一生といえませう。
 
    蟷螂の雄は交尾を了えると雌に食べられてしまいます。蟷螂の雄にとって種を残す仕事を了えたそ
   の時点こそがその寿命の尽きるときなのです。 ゾウは六十歳くらいまでは出産することができます。
   そこで六十歳くらいがゾウの寿命とみられています。
 
    これは所謂生きものではありませんが、よく竹に花が咲き実がなるとその竹は枯れるといわれます
   が、これなども子孫を残したあとに寿命が尽きるということの一例ではないでせうか。ところで、人
   間はどうでせう。昔はよく人生五十年といっていましたが、五十年も生きていれば一応子育ては了り
   ます。
 
    となれば人間が子孫を残すために必要とする時間は五十年ということで、それから定められた寿命
   は五十年、即ち人生五十年というわけです。ただ人間の場合は最近の医薬の進歩などにより寿命の尽
   きたあとも三十年ほどは余計に生きつづけられるようになりましたが、これを「余生」とは実にうま
   い表現だと思います。近ごろ寿命が延びたという言葉をよく耳にしますが、これは正しくは「余生」
   が延びたというべきで、寿命の方は子育てが了るまでということに変わりありません。 

    従ってそれ以上生きるということは、もうすでに寿命が切れている訳ですからそれから先は体のあ
   ちこちに故障が起きても不思議ではないということになりませう。
 
    これ以外にも 「 生きものの寿命はその生きものが子孫(種)をこの世に残すために必要な時間に
   よって定まる 」 という例は沢山ありますが、これは要するに生きものがこの世に生まれてくるのは
   ひとえに自分の子孫(種)というものをこの世に残し、気が遠くなるような太古の先祖から受継いだ
   生命を子孫に引継ぐことによって不滅たらしめるためであるということです。
 
    そして、これこそが生命の不滅と寿命とのかかわりなのです。
 
    ところで、最近沢山の人から一度死んだあなたにとって死というものはもう怖くはないでせうとよ
   くいわれますが、私にとって今でも死への恐怖はちっとも変わりません。ただ死の恐怖が頭をよぎる
   とき、反射的にたとえ死んでも私の生命は子供達の肉体にあって生きつづけるのだと思うとスーッと
   恐怖は消えてしまいますが、やはり死ぬということが怖いことには変わりありません。臨死体験をさ
   れた方の中には死は怖くなくなったと話されている方が多いようですが、死亡体験をした私には死後
   の世界のことがわかっていながらもやはり怖い存在には違いありません。
 
    ところで、「人間一度死んだら二度とは死なない」という言葉がありますが、そうなると私の場合、
   これからは死ぬ心配と死なない心配の二つの心配をしなくてはなりません。人間にとってなんとも心
   配の種はつきないものだとつくづく思います。 
    
    呵々         
       
        (この文はNETでのダウンロード可とされているのでそのまま利用した)
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     

    私のコメント:河相氏は、死後の世界は「何も無い「無」の世界」で、デカルトの認識論の通りだ
           と言われる。そして「私たちの肉体は死によって消滅しても生命は子孫の体内にあ
           って不滅なのです」だから生命が現世にある限り来世も又現世にあるのです。
           だから「生命は現世にあって不滅なり」という結論される。しかし、子や孫の無い
           者はどうなるんだろうか、と言う疑問がありはしないだろうか?

           所謂臨死体験の類は沢山ある。それらの多くは体外離脱の現象を述べたものだ多い。
           立花隆の『臨死体験』は様々な臨死体験の本だけれども、その結論が
           「生きてる間に、死について、いくら思い悩んでもどうにもならないのに、いつま
           でもあれこれ思い悩みつづけているのは愚かなことである。生きてる間は生きるこ
           ことについて思い悩むべきである。」なのである・・・。これでは、この本をお勧めす
           る訳には参りませんな!
           
































・縁起物(一両〜万両)

   正月の縁起物として飾られる赤い実です。
   写真をご覧になるだけでお分かりでしょう。

   一両
   蟻通し・有通し(ありどおし)とも呼ばれる。刺を持っている。あかね科
   


   十両
   薮柑子(やぶこうじ)の別名。やぶこうじ科
   


   百両
   唐橘(からたちばな)の別名。やぶこうじ科
   
   

   千両
   せんりょう科で、実が葉の上に付く。
   


   万両
   やぶこうじ科
   


   写真は「季節の花 300」 http://www.hana300.com を利用させて貰いました。































・寒桃(冬桃)
   
                                       15.1.21
    
   周りの山々は紅葉しているのに桃が見事に色付いている、寒桃である。 
    
   <写真は「ふえふき旬感ネット」さんの借り物>
 
   山梨でも寒桃を栽培していた。
   山梨県の境川町に寒桃を栽培している農家があり、11月末から12月初旬に境川農産物直売所に出し
   ている。ふえふき旬感ネット

   境川農産物直売所は中央高速の甲府南ICを降りて直ぐの所にある。
       


------------------------------------------------------------------------------------------
   冬桜は知っていて、実際に見に行ったが、寒桃(冬桃)は知らなかった。
   三重県北勢町新町で栽培されているのだそうだ。

   『新町の寒桃は、江戸時代に信州から桃木谷に移植された珍しい桃の品種です。この木は春 
    になって花が咲くのは普通の桃と同じですが、その実は、冬の初め頃に色づき寒くなって 
    から熟します。そのことから、寒桃又は冬桃と言われています。明治時代には栽培に力を 
    入れ、出荷も行われていました。
    文久元年(1861年)、孝明天皇の御妹和宮親子内親王が、第十四代将軍、徳川家茂へ御降
    嫁となり、京都から江戸へお下りの際、この里から美濃国赤坂の御泊所まで行き、この実
    を献上したところ、宮様は大変お喜びになり、宮中にもお分かちになったと伝えられてい
    ます。』
    と井後純子さんが説明されている。珍しいものがあるものである。
    

   これは黒目川の傍に10月下旬に咲いた桃の花。
   上の北勢町新町の「寒桃」とは別種で、今の時期に花咲いた桃の木だろう。
    

   鬼石の冬桜はこのHPの「愛でる」→「桜」に掲載しています。

...........................................................................................

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・癌の話
   07年の日本人の死亡原因のトップはがんであり、そしてその中でも肺がんがもっとも多いと言
   われている。がんは体の一部の細胞が、特定の遺伝子の情報シグナルを受けて無制限に増え続
   ける病気なのであり、それを防ぐには、その特定の遺伝子の活性をブロックすればよい事にな
   る。

   間野博行さん(自治医科大学教授)が肺がんの異常遺伝子を発見し、その遺伝子を利用して肺
   がんを診断したり治療する事に道を開いた。

   医療・医学ニュース → 医療・医学ニュース

   間野さんを知ったのは、「高梁高校の東京支部だより」にがんの話を寄稿されていたからであ
   る。彼は昭和53年の高梁高校の卒業生であった。ぼくの14年後輩である。

        僕のHP「生きる」→「病とどう向き合うか」に関連記事。































・小さな生態系 
     

   5年経ってもエビは元気だった。
   定年退職の時に娘が買ってくれたものだ。

   左の水槽の中に一匹だけ残っていたエビは今だ生存していた。その間、餌は一切与えず、水道
   水を僅かに補給したのみである。

   余りにも可哀想なので、2匹入っている右の円柱形のものを購入してきて、左のエビをこれに
   入れてやった。いまのところ仲良く泳いでいる。この専用の水を売っているので、水が少なく
   なれば補給してやろうと思う、水道水ではない専用の水を!
   2012.3月



     
    (枝に登っている小さなエビです)

    2007年5月に入手した「HOLOHOL」のスカーレットシュリンプという赤いエビは、3年後に健気
   にも生きていた。屋内のあまり日の当たらない所に置いていたので、色はめっきり褪せてしまっ
   て白っぽくなってはいるがピョンピョンと跳ねていた。3匹が1匹に減ってはいたが立派なものだ。

    この3年間一度水を補給しただけで、放ったらかしであった。餌も全く与えていないのである。
   素晴らしい小さな『生態系』を維持していた。将来、人類が遠く宇宙に旅立つなら、こうした技
   術の確立が不可欠であろう。

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      (2007年5月)
   ”放ったらかしていい水槽”とのなんとも”ぐうたら”で”ずぼら”な僕にとっては魅力ある
   ものがあるとの情報を得て探していた「HOLOHOLO」なるものを入手してから1年が経過した。
   (「HOLOHOLO」は2007年5月20日に入手)
   地球は46億年という長い年月をかけて、とても微妙なバランスのうえに成り立つ『生態系』を
   形成しているが、この「HOLOHOL」は地球の生態系と同様に、太陽からの光、水、食物循環で成
   り立っている”小さな生態系”である。

   大阪の有限会社オータムと言う会社がやっているこの「HOLOHOLO」の秘密は以下の通り。
       
   HOLOHOLOの秘密 → holoholo
   HOLOHOLOのHP → 参考にどうぞ。(僕は販売協力者ではありませんが)


   入手直後の状態
     
    (オータム社HPより)

   スカーレットシュリンプという赤いエビ
     
    (オータム社HPより)

   一年後の状態(2008年5月)
   右下の方にエビが生きている。

     































・ムペンバ効果(湯は水より早く凍る?)
   08年7月9日にNHKが放送した「ためしてガッテン」で37.2℃の水と66.5℃の湯を60g
   づつ零下25℃の冷凍庫に入れたら、高温の方が早く凍った実験を紹介した。
   
   NHKは前野紀一北大名誉教授の協力を得て、実験を繰り返して高温の方が早く凍る
   ことを確認して放送したとし、この現象を「ムペンバ効果」としている。
   
   
   これに噛み付いたのが早大名誉教授の大槻義彦氏で、いくら実験してもそんな現象
   は起こらないと反論している。
   
   下記大槻教授の08.7/22と08.7.31の項を参照ください。
   大槻義彦公式ブログ

   タンザニアの高校生 Erasto B. Mpembaが発見したこの現象は本当なのだろうか?
   自分が適当にお湯と水を冷蔵庫の製氷棚に入れてやった結果では水の方が早く結
      氷したが、湯の方が早く凍る事があるんだろうか。

   
   mixyの、とある日記に次のような記事が載っていた。
   『1、物体の熱容量が相変化をしないにも関わらず変化している。しかし同じ相であっても、
    分子の振動自由度の占有数は温度によって比例するので、それに伴い熱容量は変化する。 
    だが、同じように冷却をしているので、高い温度の方が早く凍るとは考えられない。それだ
    と冷却するに従って熱容量が上がるのだから。
     2、0〜60℃まで加熱した熱量と0〜30℃まで加熱した熱量は明らかに違う。なのに
    60℃の水が早く凍るという現象はそれだけを見ればエネルギー保存則が破綻している。 
    実験の再現性が無くて、根拠に乏しい物を放送してよいのだろうか?? 
    しかも、熱いものを凍らせた方が電気代が安く済むとまで抜かしやがったらしい。そんな事
    があったならば、既に永久機関が開発されていて、地球温暖化も解決してるから(笑)さす
    がに放送まではやばいだろ!」 
    まぁyoutubeにも同じ実験をしている動画があったので、それを見て気付いた点が二つある。 
     1、水を入れている容器が開放系であること。 
     2、二つ同時に冷却していること。 
    つまり、蒸気圧の変化と気体の溶解度が原因ではないかと思ったのである。』 以下略。

   08年7月31日の朝日・夕刊でこの論争を記載している。
   国立極地研究所の藤井理行所長は南極で零下40℃の大気に熱湯をまくと瞬時に氷の
   粒になるが、水をまいてもうまくいかない。熱湯の方が水より温度差が大きく、激
   しく熱を奪われるからだ、としている。

   ムペンバ効果とは→   ムペンバ効果

   →「ムペンバ効果」について様々な議論が起きています。あなたも検索してみたら如何?
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・人類は何処からきて、今後どうなるのだろうか
  「われわれはどこへ行くのか?(松井孝典著・ちくまプリマー新書)」をもとに、この
   興味尽きない話題を見て行く。  <作製中>

      複製されるヒト

































・人類は絶滅するか
   太陽は年々明るくなり続けていて、5億年後には地球は生命が住めない惑星になるそ
   うです。

   太陽の熱核融合反応は水素の原子核4つが融合し、ヘリウムの原子核に変わる現象で
   水素原子核4つの質量よりもヘリウムの原子核の質量が0.7%軽くなり、その減少した
   質量が E=mc²(エネルギー=質量×光速の二乗)で莫大な核エネルギーを放出す
   る訳です。

   いかに巨大な太陽でも時間の経過とともに太陽中心部の水素が減り、ヘリウムが増え
   ると、水素よりもヘリウムの重量が重くて重力が増し、熱核融合が加速され続け太陽
   が明るくなり、ついには地球は生命が住めない惑星に5億年後になるそうです。

   それよりも、今問題になっている化石燃料を燃やし続ける事による温暖化や、利益優
   先の仕組みの元での大量消費と経済成長を続ける限り22世紀は迎えられないかも知れ
   ない。

   更に、人為的な事象である核管理は進んだとは言えず、世界終末時計は2007年ついに
   5分前までに迫っている。現在はこの時計は環境破壊をも考慮して針が進められている。
      
   世界終末時計      
 































・最強の生物

 1.「深海の超好熱古細菌」
   超好熱古細菌がインド洋の水深2,450mの熱水が噴出する海底で採取されたと08.07
   .29の朝日の朝刊に掲載されている。

   この微生物は海洋研究開発機構の実験では、温度122℃、水圧200〜400気圧で増殖す
   ることが確認された。今回の古細菌がいた場所の海水温度は360℃だったそうだ。

   地球上の生命は、これら古細菌が住んでいたような高温の海域で誕生した、というの
   が有力な説の一つである。

   好熱菌は、至適生育温度が45℃以上、あるいは生育限界温度が55℃以上の微生物のこ
   とを言い、特に至適生育温度が80℃以上のものを超好熱菌と呼ぶ。極限環境微生物の
   一つだそうだ。

       
      
      
 2.「クマムシ」
   周りに水分が無くなると、自らも乾燥してたる型にまるまって「乾眠」し、零下272
   ℃の超低温、151度の高温でも、また、75,000気圧の環境でも死なず、凍土で8年以上
   も生きたとの報告があるのだそうだ。(08.06.16朝日新聞)

   これらの生物は、地球環境が悪化して、人間などの生物が絶滅した後もきっと生き延
   びるものだろう。
       
      































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