河越夜戦
 * 上泉伊勢守にまつわる歴史とゴルフ場のお話 * 
   

                       
 1545年9月、私の誕生日を遡る事400年前の晩夏の頃、(ちなみに私の誕生日は1945年8月)
関東地方の勢力地図を決定的に塗り替えようとする大事件が起ころうとしていた。足利幕府の
力は衰弱の一方であったが、当時まだ関東ではそのアンシャンレジームたる関東公方足利氏、関東管領
山内上杉氏、相模守護扇谷上杉氏の力は、形骸化したとは言え厳然として残っており、小田原
に本拠を構え関東の制覇を伺う北条氏は着々と領地を拡大し、武蔵、上野にもその食指を延ば
していた。

 ところが、北条氏綱(北条早雲の子供:早雲はその出生は不明で、備中の浪人とも言われて いる。早雲は上杉家所領の伊豆、相模を奪取した)、は小田原の拠点を固めた後父早雲の志を 引き継いで武蔵の江戸城、河越城を攻略していった。しかし、氏綱が1541年に没すると、上記 の旧勢力が千載一遇のチャンスとばかりこの北条勢の駆逐を図って大同団結したのである。この北 条は鎌倉の北条と区別して「後北条」と通常呼ばれている。
 当時の河越(現在は川越)は4,5百戸の漁村であった江戸に比べて、交通の要衝でもあり、農 産物の集積地でもある大邑であった。この河越城に僅か3,000の兵で篭城したのが北条綱成であ る。綱成は福島正成の子で、武田に正成が討たれた後、北条氏綱に救われ氏綱が烏帽子親となっ て育成した。
 ここで我が上泉伊勢守が登場するのであるが、この北条綱成は伊勢守秀綱に「心陰流」を学び地 黄八幡の旗の元北条の関東蚕食の最前線で活躍していた猛将である。河越城は山内上杉、扇谷上 杉の両上杉、足利や箕輪の長野、国峯の小幡、大胡の上泉等上州勢約8万3千もの大軍勢に包囲さ れ落城寸前の状態であった。  その前に河越城について概要を見てみると、 河越城は現存しているが、当時の1/10以下の敷地で本丸御殿、家老詰所、富士見櫓跡程度で当時 の面影はない。国道254号を仙波の交差点を東京方面から東松山方面に1km程進むと左側に川越市 民球場が見えてくる。その裏手が河越城である。
 この河越城は1457年(長禄元年)関東管領扇谷上杉持朝が太田道灌に命じて築城したとされる。 その後北条氏綱によって1537年(天文6年)攻められ落城するまで扇谷上杉が80年城主であった。 しかし、この河越夜戦で勝利した北条がその後60年に渡って支配した。1590年(天正18年)の秀 吉の小田原攻めによって北条は断絶させられ、以降家康の関東入府後は川越藩となり徳川勢の酒 井重忠、松平伊豆守信綱(平林寺に墳墓がある)、奥州棚倉の松平家が明治まで支配した。

 この河越夜戦開始までに半年以上もの間この河越城を包囲した反北条勢力の数8万3千もの軍隊 がそこで野営するのはいかにも不自然である。山内上杉憲政は平井城から6.5万の兵を持って柏 原城山(現在の狭山市)に、足利晴氏はは砂久保(現在の新河岸近辺)(下老袋の伊佐沼付近か) に、扇谷上杉朝定は松山口(東明寺)に夫々陣を構えた、とされている。  現地に行くと判るのだが、東明寺を除いて、そこは当時は所謂武蔵野の原野であり水は確保で きるものの、半年以上そこで8万を越える軍隊が野営するには条件が厳しすぎる。ロジスティック(兵站) がとうてい可能とは思えない。武蔵野は冬は烈風が吹きすさび、冬は現在とは比較にならぬ程の 雪も降ったはずで、これは近くの寺等に分散して生活したと見るほうが自然である。


他方、今川と戦っていた北条氏康は急遽和議を結び、 急ぎこの河越の綱成を助けるべく武蔵へ約8千の兵 を引き連れて駆けつけ、三ツ木(狭山市、西武新狭山 駅)に陣を構えた。 さて、ここからが河越夜戦の始まり、始まり・・・。
結論から先に言えば、十倍もの敵を相手にした北条 軍が圧勝し、8万3千もの反北条軍は1万5千も討 ち取られ、夫々の居城へ逃げ帰るのである。我がヒ ーローの上泉伊勢守信綱もここでは   格好悪く、遁走するのみであった。 日本3大夜戦と言われるこの河越夜戦、毛利元就の厳島夜戦、そして信長の桶狭間夜戦とされて いる。桶狭間は昼間ではなかったかナ。共通しているのは、10倍を上回る敵を油断させておい て奇襲し打ち破るものである。圧倒的多数の敵に必死で立ち向かうのは、講談でも、芝居でも、 映画でも、勿論歴史書でも痛快である。アラモア砦しかり、LASTサムライでもしかりであった。
 河越夜戦の最激戦地であった東明寺(川越地方裁判所を新河岸川へ向かう手前)付近を、明治 の初期に開墾したところ数百の白骨遺体がまだ出たそうである。 川越城を包囲した反北条軍は、全く楽勝と思っていたらしく、たるみ切って志気は最低であった らしい。上杉憲政などは、京都から呼び寄せた白拍子(現在の高級銀座ママか?)を呼び寄せ、 夜な夜な戦地とは思えない饗宴を開いていたらしい。
 氏康は謀略の限りを尽くし、忍者を多用するほか、酒色を敵方に相当送り込んだり見せかけだ けの攻撃をして相手が討って出るとさも弱そうに一目散に逃げる事を繰り返し、敵の油断を最大 限に拡大している。上泉伊勢守信綱はこれを苦々しく思い、また川越城に篭る北条綱成はかって 新陰流を伝授されたこともあり、これではいかに10倍もの兵力を持って攻めても苦戦すると直感 するところがあった。事実そうなるのであるが、後に大胡城を北条方に攻められた時、上泉伊勢 守信綱はこの時のお返しを充分に行う事になる。
 三ツ木に陣を張った氏康は、この圧倒的な敵の勢力を目の当たりにし、一旦は府中まで退き盛 んに和議を申し入れた。 また、盛んに裏工作で忍者を利用している。実はこの従順を装う和議も実は巧妙な謀略であった のであるが、相手は全くそれらに貸す耳を持たなかった。そうして1546年(天文15年)4月21日の 夜、突如として全ての音が出る甲冑等を脱ぎ捨てきりもみ状態で油断し切って大鼾をかいている 敵陣に切り込むのである。  北条方は白い紙を肩衣のように着け、敵味方の区別をして、白をつけて居ない者を手当たり次 第に突きまくり、切りまくったようである。また、ある説では鎧に白い布を付けて敵味方の区別 をしたともある。いづれも正確な記録はなく、後の歴史家が書いたものであろう。後者の方が、 戦闘行為では自然と思われるが・・・。
 当時は戦功を認めさせるため、討ち取った首級を挙げるのが普通だったが、切り捨てたままで 構わず前進に前進をした。敵は暗闇に音も無く現れた戦闘集団に為す術もなく討ち取られ、懸命 の遁走がやっとであった。これを南北双方から行ったものだから、8万を越える大軍も大混乱に 落ち入り、もともと渋々参戦した足利晴氏はほとんど戦闘をすることも無く、一気に荒川、利根 川を渡って古河に逃げ帰った
 赤間川(現在の新河岸川)が川越市街を取り巻くように流れているが、この川は江戸時代に入 って川越城主となった松平伊豆守信綱が江戸との水上交通路として舟便を開いている。この中程 に引又があり江戸時代は宿場町、江戸と川越の中継地として栄えていた。今の志木市です。   丁度志木市役所の辺りに集荷場等多くあった。これは後に東武東上線が池袋-川越まで開通するま で重要な交通路として利用されていた。今は、新河岸川付近は全く当時の面影はなく、生活用水 で汚濁された河川となっている。狭山湖を水源とする柳瀬川が志木市役所のすぐ下流で合流し、 隅田川へと下っていくのである。  話がそれたが、この柳瀬川に鮎が遡上し多くの釣り人を寄せ付けているが、これは多摩川でも 同じ現象が起きており、まさかあの汚い東京湾から鮎が遡上するハズも無く不思議がられていた。 どうやらその謎は、利根川→江戸川や荒川を下った鮎がお台場あたりで繁殖し、多摩川や隅田川 →新河岸川→柳瀬川あたりに遡上しているらしいのである。  脱線ついでに言いますと、東武東上線が池袋から寄居まで通じていますが、寄居は昔では武蔵 の国です。東上とは東京と上州(上野国)結ぶ予定で東上線となった訳で、当初は群馬県までの 延伸計画があった。 因みに、関八州とよくいいますがこれは安房、上総、下総、常陸、下野、上野、武蔵、相模の八 国を言います。
 河越城を包囲した北条方、足利方の陣地には現在多くのゴルフ場がある。扇谷上杉勢の陣営には 高坂CC、鳩山GC、川越CC、東松山CC、富貴GCがあり山内上杉勢の陣地方面では霞ヶ関CC、東京GC、 日高CC、武蔵CC、久邇CC等の名門ゴルフ場がある。また古河公方勢の陣地方面は荒川、伊佐沼等河 川湖沼が多く錦ケ原G、大宮CC、川越グリーンクロス、大宮国際CC、リバーサイドフェニックス等が点在している。 こちらは、河川コースでランクは落ちる。
 この河越夜戦を取り上げた松本清張の「黒い空」(角川文庫)は、この夜戦を契機にして滅んで 行った山内上杉憲政の子孫の女実業化が出て来る小説であり、その最初の下りにこの夜戦の状況 が書かれている。  砂久保(砂窪)に陣を構えた山内上杉憲政が敵前逃亡に等しい退却をしたため、東明寺に陣を 張っていた扇谷(おおぎがやつ)上杉朝定は討ち死に、補佐役の難波田憲重は東明寺の井戸に落 ちて落命します。この「黒い空」では、その時の扇谷上杉の遺恨をはらすため、四百数十年の時空 を超えて扇谷の末裔が山内の末裔を滅ぼすストーリーです。  関東管領の上杉は始祖上杉頼重の2代目になって扇谷上杉、詫間上杉、犬縣上杉、山内上杉に 分かれお互いに権力争いを行ってきた。詫間、犬縣は早くに断絶し扇谷、山内が最後まで残った。 扇谷はこの「河越夜戦」で朝定が討ち死にして絶えた。山内上杉憲政は上野平井城に逃げ込み、更 に家来を僅か伴って密かに越後の長尾景虎の元へ逃亡し、管領職も名前も差出し長尾景虎改め上 杉謙信の比護のもと余生を送った。残されたその子竜若丸は捕らえられ、山王ケ原で首をはねら れてしまった。どうも憲政という人物は取るに足らない武将であったようである。
 さて、河越城を守りぬいた北条勢は勢いをつけて関八州の征服を目指します。箕輪城に長野業 政等と逃げ帰った上泉伊勢守等はその後北勢の攻撃を受けることになります。まず平井城、厩橋 現前橋)城、大胡城などが攻撃されます。


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