難波田城   

   <難波田城・難波田弾正善銀>
 我が家から一番近い城址は富士見市南畑の「難波田城」である。浦所街道を浦和方面に進み、 荒川に掛かる羽倉橋を渡る手前を川越方面に左折して立教大学のグラウンドを過ぎた左手に ある。この辺りはまだ水田が一面に広がっており、住宅が少しずつ水田を蚕食しつつある地 域である。
 難波田弾正善銀(憲重)<善銀は法名>は扇谷(おおぎがやつ)上杉に仕えた武将であり、河 越夜戦で東明寺の古井戸に落ちて死亡したとされている。その善銀の居城が「難波田城」であり、 上杉、古河が北条に敗れて後に北条に仕え、後に秀吉の北条攻めで滅ぼされ廃城となってしま った。
難波田弾正善銀は松山城で北条氏綱と戦った際、山中主膳より和歌問答をしかけられ次の和歌 問答を残している。「松山城風流合戦」
主膳に 「あしからじ よかれとてこそ 戦はめ など難波田の崩れ行くらん」 (主君のため良かれと闘ったのではないか、なぜ弾正ほどの者が逃げるのか)
それに返す善銀は 「君をおきて あたし心を我もたば 末の松山浪もこえなん」 (幼い主君を置いて自分が死せば、最後には松山は波の中に呑まれてしまう。そういうわけで  ここは逃げざるを得ないのだ) この時代はまだ戦場でもこんな風流があったのでしょうか。
難波田城と言っても、立派な天守が石垣の上に聳えるものではなく、荒川の低地に建つ平城 であった。規模は約50,000uだったが現存するのはその極一部のみで、大半は水田と宅地に なっている。
 この城址の東側、つまり荒川河川敷きであるが、ここは「錦ケ原ゴルフ場」で荒川の左岸と右岸 にコースがあり、途中船に乗って川を渡ってプレーする様になっている。少しでもドライバー が曲がるとたちまち川へボールはポッチャンでOB、反対に曲がると土手に駆け上がりこれも 又OBで、実に難しいコースである。当然川風は強いし、台風などで増水して冠水もたびたび で芝が薄い処も多い。ここで練習してから全英オープンに行けば少しは日本人ももう少し活躍 できるのではないかしらん!
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