《The forest universe of the four seasons》
 * 小幡郷GC * 

小幡郷ゴルフ倶楽部を04.07.29再訪。
当日は、あの迷走台風が東からやって来た日です。朝から雨模様でしたが、初志貫徹
で決行。午前中は傘をさしながらなんとか終了、後半も5ホール目あたりまでは殆ど雨
も降らず順調に進みました。(後半は6ホール終了して1オーバーと好調)
ところが、7ホール目から土砂降り、パットができません。止む無く7ホール目のパット
を残して引き上げ中止しました。皮算用では7ホールは悪くてボギー、8ホールはショー
トですのでパー、8ホールは左池で右OBですがボギーは取れそうなので、後半は3オー
バー39で上がれるハズでした、残念!(前半は46ですが・・・)

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小幡は城下町で、林檎畑があり、この小幡郷ゴルフ倶楽部はその林檎畑の跡に造営
されたゴルフ場で、毎年女子プロのトーナメントが開催されるところである。
 元和元年(1615)に織田氏の所領となり、以来約150年に渡って治められた城下町。
織田信長の次男信雄がつくった大名庭園「楽山園」、日本名水百選に選ばれた用水路
「雄川堰」、江戸時代の勘定奉行高橋家の武家屋敷、名主を務めた松井家など、当時
の名残りを色濃く残す見所が町のいたるところに点在する。」と観光案内にある。

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03年11月快晴、無風、気温15℃の絶好のコンディションのある日、くたびれたおじ
さんグループが東京と埼玉からやってきて、子供のように芝生の上を飛び跳ねた。
そして、帰りは、来た時よりも更にクタビレテ、反省しながら、帰って行った。


この空の青さと、紅葉の紅をご覧下さい。

               小幡郷ゴルフ倶楽部





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小幡郷は国峯城の城主小幡信貞・小幡図書之助兄弟から小幡の名前をつけたのだろう。
国峯城は箕輪城、平井城と並んで当時上州の3名城と言われていた。

後に、小幡図書之助は兄小幡信貞が武田信玄に組する事に叛き、長野業政の兵を国峯城
に迎い入れ信貞を追放して城主となる。しかし武田信玄の大軍に攻められ最後には落城させ
られて宝積寺に逃れ、そこで自害する。この宝積寺は小幡郷ゴルフ倶楽部のすぐ近くにある。
宝積寺に逃れた小幡図書之助の妻於富は上泉伊勢守の子弟であり、宝積寺を攻めた武田
の兵を数多くたおした。於富は我子千丸を逃したあと、娘清乃の胸を一突きで先立たせ、そ
のあと夫図書之助の首を一刀の元介錯したうえで自決したとされている。今は宝積寺に紅梅
が当時のおもかげも無く、毎年ひっそりと咲く。

箕輪城は長野業政の居城。平井城は管領上杉憲政の牙城であった。現在は3城とも城址が
残るのみである。上杉憲政は後に、北条氏康に攻められ、長尾景虎を頼って越後へ逃れ関
東管領職を長尾景虎に譲る。上杉の姓も継いでもらい、長尾景虎改め上杉謙信となる。

平井城は上杉家が隆盛だった頃城下町も賑わっていたが、今は藤岡市西平井の鮎川の側
に僅かに城址が残るのみで、当時の面影は微塵もない。平井城のすぐ近くにツインレイクス
ゴルフ倶楽部があり、関越自動車道の本庄児玉ICを降りて、神流川を渡り、この平井城址
のある鮎川を過ぎて、藤岡ゴルフクラブ、緑野ゴルフ場の間を吉井方面に向かうと関越ハイ
ランドゴルフクラブにたどり着く。


    →国峰城へ(群馬県埋蔵文化財調査事業団HP)

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